第七十八話 燃える手がかり
氾濫源の奥、痕跡を追います。
夜が明けると同時に、セレスたちは引きずり跡を追って沼の奥へ進んだ。昨夜の焚き火の匂いが、まだ服に染みついている。
「にしても、よく眠れたな、お前」
ガロンが欠伸を噛み殺しながら言う。セレスは肩を竦めた。
「見張りは交代したし、寝られる時に寝ておくのは基本だろ」
「その基本ができないから苦労してるんだよ、俺は」
ミュゼが小さく笑って、二人の間に割って入った。
「二人とも、足元。ぬかるんでます」
言われて見ると、泥の中に沈みかけた足跡が続いている。人ひとりを引きずったような、幅の広い跡だった。
「――止まれ」
ガロンが低く言って、腕を上げた。木々の隙間から、朽ちかけた見張り小屋のような建物が見える。
「人の気配は……薄いな」
「でも、何かの匂いがします」ミュゼが鼻を鳴らした。「焦げた匂いと、あと……薬品みたいな」
建物の中は、案の定もぬけの殻だった。だが、床には見覚えのある光景が広がっていた。歪んだ紋様が刻まれた石板の欠片、砕けた術式具、そして――壁際に転がる、銀色の仮面の破片。
「これ……」
セレスは仮面の欠片を拾い上げた。冷たく、硬い。地下遺跡で見た、あの男の顔を覆っていたものと同じ質感だった。
「銀仮面の……」
「ここでも同じことをやってたのか」ガロンが石板の欠片を蹴り、苦々しく呟いた。「偽紋様。まだ懲りずに」
王都の地下で見た光景と同じだ。歪んだ紋様、砕けた術式具、そして誰かを閉じ込めていたらしい鎖の跡。何かを作ろうとしている。何のために、まだ分からないが。
「――こんな辺境まで手を伸ばしてるなんて」
ミュゼが石板の一つを覗き込み、顔を曇らせた。「王都だけの話じゃなかったんですね」
「セレス、これ持って帰れば――」
ミュゼが言いかけた、その時。
「――そこまでだ」
声と同時に、小屋の外壁に火が走った。
「囲まれてる!」
ガロンが叫び、セレスの襟首を掴んで引き倒す。頭上を、火矢のようなものが焼け焦げながら通り過ぎ、壁一面に炎が這い上がった。熱が肌を焼く。
「証拠を……!」
「今はいい、離れるぞ!」
ガロンの怒鳴り声に、セレスは奥歯を噛んだ。石板をすべて持ち出す時間はない。天井の梁が軋み、崩れ落ちる音が近づいてくる。判断は一瞬だった。
「仮面だけ持って撤退する。ミュゼ、先に出ろ!」
三人は炎の中を駆け抜けた。煙で視界が塞がれ、どちらが出口かも一瞬分からなくなる。背後で、木材の崩れる音と、術式具の砕ける音が重なった。飛び込むように外へ転がり出た直後、背後で入口が崩れ落ちる音がした。振り返った時には、小屋はすでに橙色の炎に包まれていた。
安全な距離まで離れて、ようやく足を止める。
「……くそ」
ガロンが荒く息を吐いた。「もう一歩ってところだったのに」
「無事なら、それでいい」セレスは仮面の欠片を握りしめたまま答えた。「証拠は惜しいが、お前らを失うよりはましだ」
「かっこいいこと言うじゃねえか」ガロンが肩を竦め、それでも表情は緩んだ。「――にしても、試験の評価はどうなる。手ぶらに近い」
「今ので分かったこともある」ミュゼが息を整えながら言う。「危険を判断して、無理せず全員生きて戻ってきた。それも評価のうちだと思う、たぶん」
「……だといいけどな」
セレスは、燃える小屋を振り返りながら、ふと引っかかりを覚えた。
「――待てよ。あの火、こっちが小屋に入った瞬間に上がってる」
「ん?」ガロンが眉を寄せる。
「見張りが薄いなんて、最初から気づかれてたら不自然だろ。だとすると――」
「見つかったから燃やしたんじゃなくて」ミュゼが後を継いだ。「最初から、私たちが来るのを待ってた、ってことですか」
三人の間に、しばらく沈黙が落ちた。誰にも見られていないと思っていた道のりを、実は誰かに見られていたのかもしれない――そう思うと、背筋が冷えた。
「考えても今は答えが出ない」セレスは仮面の欠片をポケットにしまい、努めて声を落ち着けた。「動きながら考えよう」
沼地を抜けて開けた草原に出た頃、遠くに二つの人影が見えた。イリスとレイフィアだった。二人は駆け寄ってくるなり、セレスたちの煤けた格好を見て顔色を変えた。
「その煙……まさか、あなたたちが?」イリスが小屋の方角を指さす。
「無事だから、そんな顔するな」ガロンが苦笑いで手を振った。
「怪我は?」レイフィアが素早くミュゼの腕を取り、傷がないか確かめる。ミュゼは少しくすぐったそうに笑った。
「大丈夫です。皆さんの方は、灼熱狼の追跡は?」
「巣の方角は絞れたわ。今夜のうちに合流地点まで戻れば、明日には仕留められると思う」イリスが答え、それから声を落とした。「でも――そっちの話、聞かせて。様子がおかしい」
セレスは仮面の欠片を取り出し、事の次第を手短に語った。聞き終えたイリスとレイフィアの表情が、次第に硬くなっていく。
「王都だけじゃなかった、か……」レイフィアが低く呟いた。「アルトさんには?」
「これから戻って報告する」
合流地点までの道すがら、イリスが仮面の破片を借り受け、陽にかざしながら小さく眉をひそめた。
「この刻印、見れば見るほど」イリスが呟く。「セレス、あなたの――」
「ああ」
言われなくても分かっている。地下遺跡で初めて仮面を見た時から、ずっと引っかかっていたことだ。この紋様の曲線は、自分の体に刻まれたものと、どこか似ている。
「気のせいだと、いいんですけど」レイフィアがそう呟いたが、その声には隠しきれない硬さが残っていた。
「だな」ガロンも頷きながら、無意識に大剣の柄に手をやった。「――にしても、待ち伏せしてたのが本当なら、こっちの動きを誰かに知られてたってことだ。試験中の俺たちを、だぞ」
誰が。何のために。答えの出ない問いだけが、四人の間に重く残った。
女神にも、まだ聞けていないことがある。この紋様が、本当は誰の管轄なのか。そして、待ち伏せに気づいていたかのような、あの火の上がるタイミング。
試験の期限は、あと一日半。氾濫源の異変も、灼熱狼の討伐指定も、まだ何一つ終わっていない。
「戻ろう。ひとまず、アルトに報告だ」
四人は、遠くにまだ煙を上げる小屋を一度だけ振り返り、来た道を引き返した。
第七十八話「燃える手がかり」をお読みいただき、ありがとうございます。
証拠は焼けてしまいましたが、銀仮面との繋がりが少し見えてきました。ガロン・ミュゼの評価がどうなるかも気になるところ。次話、王都へ帰還です。
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