第七十七話 三頭目の意味
銀ランク試験、本番です。
北の森は、王都の喧騒が嘘のように静かだった。半日ほど獣道を進み、木々の隙間から差す光が傾き始めた頃、一行は分かれ道に差し掛かった。
「――ここまでは、私たちの役目ね」
レイフィアが足を止めた。イリスも、細剣の柄に軽く触れながら頷く。
「試験区域の奥までは同行できない。付き添いの登録は、あくまで見送りの範囲までだ」
「何かあったら、すぐ狼煙を上げて。近くで待機してるから」
レイフィアの言葉に、ガロンが軽く肩を竦めた。
「心配性だな」
「心配して悪い?」
「――いや、助かる」
ガロンは意外と素直にそう返すと、セレスたちを促して先へ進んだ。二人の姿が木々の向こうに消えるまで、ミュゼは何度も振り返っていた。
やがて木々が開け、水の匂いが濃くなった場所に出た。氾濫源――かつて川が溢れ、地形ごと沼地に変えたという一帯。水面の向こうに、赤黒い毛並みの群れが見えた。
「三頭……いや」
ミュゼが杖を握り直しながら、数を数える。
「四頭います」
基準より一頭多い。灼熱狼が、揃って低く唸った。
「面白いこと言うじゃねえか」
ガロンが笑って前に出る。
「――待て」
セレスは腕を伸ばして止めた。
「お前とミュゼの評価が先だ。俺は、危なくなるまで手を出さない」
「は? おい、正気か」
「正気だ。三日ある。一頭ずつでいい」
ガロンは一瞬、面食らったような顔をしてから、ふっと笑った。
「――言うようになったな、無色」
大剣を構え直し、一頭目へと踏み込む。灼熱狼の爪が唸りを上げ、ガロンの盾のような体がそれを真正面から受け止めた。火花のような熱が散り、焦げた匂いが鼻を突く。
「危ないっ……ガロンさん、後ろ!」
ミュゼの声に、ガロンが体を捻る。二頭目の牙が掠り、腕から血が滲んだ。
「――ミュゼ!」
「はい!」
淡い緑の光が傷口を包む。回復魔法が広がると同時に、ミュゼ自身も杖の先から光弾を撃ち出し、三頭目の視界を焼いた。狙いは正確で、無駄がない。
「やる……!」
ガロンが吠える。負傷の痛みごと吹き飛ばすような踏み込みで、一頭目の首筋に大剣を叩き込んだ。灼熱狼が地に沈む。
二頭目、三頭目が怯んだ隙に、ミュゼの光弾が連続で突き刺さる。回復と攻撃を同時にこなす姿は、セレスの記憶にある「才能なしと言われた少女」とは、もう別人だった。
残る四頭目――最も大きな個体が、標的をセレスに変えて跳んだ。
「――そこまでだ」
セレスは半歩だけ前に出て、腕輪の下の紋様に触れた。イリスから借りた剣筋の記憶が、指先まで駆け抜ける。振り下ろされる爪を紙一重で躱し、体勢を崩した一瞬に踏み込む。抜き放った剣が、跳躍の軌道をただ一撃で断った。灼熱狼の巨体が、力なく沼に沈む。
静寂が戻る。
「……四頭目だけかよ、ずりぃな」
「危なくなったら、って言っただろ」
ガロンが傷を押さえながら、それでも満足そうに笑った。
「けど、悪くなかったぜ。おい、見たか今の踏み込み」
「見た見た!前より全然踏み込めてる!」
ミュゼが手を叩く。セレスは、二人の顔に浮かんだ表情――評価される側としての、確かな手応え――を見て、黙って頷いた。自分がどれだけ強くても、この手応えだけは代われない。
灼熱狼を捌き終え、野営の準備に移ろうとした時、ミュゼが沼地の縁でしゃがみ込んだ。
「……これ」
泥の上に、黒い布の切れ端が落ちていた。焼け焦げたような跡がある。
「灼熱狼の巣に、こんなものが?」
セレスは布切れを拾い上げた。ここは、試験区域の奥――本来、人が立ち入るはずのない場所だ。獣の縄張りに、人の手が入っていた痕跡。
「――一頭多かったのも、これのせいか」
ガロンの声から、笑いが消えていた。焼け跡の中心には、何かを引きずったような跡が、沼の奥へと続いていた。
「アルトの奴、黒ローブが動いてるって言ってたな」
試験の朝、列の外で交わした短い警告――あれのことか。ガロンが布切れを見つめながら呟くのを聞いて、セレスは合点がいった。ここ最近、王都の裏で暗躍している正体不明の集団。その気配が、こんな辺境の試験区域にまで伸びているとは、思ってもみなかった。
セレスは布を懐にしまい、痕跡が続く沼の奥へと目をやった。試験の期限は、あと二日と半日。だが、これを見過ごして先に進むわけにはいかなかった。
「野営はここで。ミュゼ、レイフィアたちに狼煙で合図を」
「え、でも、今夜のうちに追った方が……」
「暗い沼を、正体不明の相手が仕掛けたかもしれない場所で進むのは無謀だ。三日ある。焦らなくていい」
ミュゼは一瞬不満そうにしたが、すぐに頷いて狼煙の準備に取りかかった。ガロンが焚き火の支度をしながら、低く言う。
「――退屈しない試験になりそうだな」
「ああ」
セレスは、遠くの闇に沈む沼地を見つめたまま、静かに答えた。
*
分かれ道の少し先、木々の間から一筋の狼煙が上がるのを、レイフィアは見逃さなかった。
「――予定通りの合図ね。無事、みたい」
「今のところは」
イリスが、腕を組んだまま短く答える。細剣の柄に置かれた指先は、まだそこから離れていなかった。
「随分、心配性ね」
「あなたに言われたくないわ」
レイフィアが小さく笑う。二人は同時に、狼煙が消えていく方角を見つめた。
「――何か、あった時のために。少し近くまで詰めておきましょう」
「賛成よ」
夜の森に、二人分の足音が静かに溶けていった。
銀ランクへの試験は、まだ始まったばかりだ。だがこの氾濫源には、灼熱狼よりも厄介な何かが、既に足を踏み入れている。三日という期限が、急に短く感じられた。
第七十七話「三頭目の意味」をお読みいただき、ありがとうございます。
ガロンとミュゼの見せ場回になりました。個人評価というルールが、思わぬ形で二人の背中を押します。次話、氾濫源の異変にどう向き合うか。
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