第七十一話 薬箱を任された日
リンに、初めての役目が与えられる話です。
「はい、これ」
ガロンが厨房で仕込みをする傍ら、レイフィアはギルドへ依頼票の確認に、ノアは市場へ、アルトは今日も別行動――いつも通りの、それぞれの一日が始まっていた。
そんな朝、ミュゼが、薬箱をどさりとリンの前に置いた。
「今日から、これの管理、お願いできる?」
「……私が?」
「うん。回復薬の残量とか、使用期限とか。地味だけど、すごく大事な仕事」
リンは、戸惑ったように箱を見つめた。
「失敗したら」
「そりゃ困るよ。いざという時に薬が足りなかったら、洒落にならない」
あっさりとした返事だった。
「本当に、いいの。私なんかに」
「私なんか、じゃなくて。リンに」
ミュゼは、はっきりと言い直した。
「適当な人には任せないよ、こういうのは」
その一言に、リンは何も言い返せなかった。
昼過ぎ、その役目は、いきなり試されることになった。
「痛っ……!」
裏庭から、ガロンの声が響いた。薪割りの最中、斧の柄が滑って手の甲を切ったらしい。血こそ大した量ではなかったが、傷は思ったより深い。
「大丈夫ですか!?」
ミュゼが真っ先に駆け出そうとするのを、ガロンが片手で制した。
「これくらい、平気だ。それより――」
「回復薬、どこだ」
「私が、持ってます」
リンは真っ先に駆け寄り、薬箱を開いた。だが、そこで手が止まる。
似たような小瓶が、二つ並んでいた。一つは正しい回復薬。もう一つは、以前ミュゼが調合に失敗した試作品――間違って使えば、傷が余計に腫れると聞いていたものだった。
ラベルは、どちらも掠れていて読みにくい。
「……こっち」
わずかな迷いの後、リンは片方を選んだ。使用期限を確認した時、正しい方の瓶にだけ、小さな傷がついていたのを覚えていたからだ。
「これで」
差し出された薬は、正解だった。ガロンの傷口に塗られた緑の光が、傷を静かに塞いでいく。
「……よく分かったな、どっちか」
「昨日、確認した時に、覚えてました」
ガロンは、しばらくリンを見つめた。それから、ふっと口の端を緩めた。
「上出来だ」
夕方、宿の裏庭で、イリスが剣の手入れをしていた。今日はいつもと違い、リンも隣に腰を下ろしている。
「見てて、いいの」
「見るだけじゃ覚えられないでしょう」
イリスは、布と油を差し出した。
「やってみる? 私のじゃなくて、あなたの短剣で」
短剣、と言われて、リンは驚いた顔をした。廃坑からの帰り、護身用にとガロンから譲られたものを、実はまだ一度も自分で手入れしたことがなかった。
「……やり方、分からない」
「教えるわよ。今日だけじゃなく、これから毎日」
「毎日?」
「刃物の手入れは、毎日やるものよ。サボると、いざという時に切れなくなる」
「これから毎日」という一言に、リンは何かが胸に落ちるのを感じた。
「一緒に、やろう」
「……うん」
短い返事だったが、確かな頷きだった。
イリスに手を添えられながら、リンは布を刃に滑らせる。力の入れ方が分からず、最初の一往復はぎこちなく引っかかった。
「そんなに力、いらないわ」
「……難しい」
「誰でも最初はそう。私も、最初は指を切ったわ」
「イリスも?」
「ええ。あなたよりずっと不器用だったと思う」
冗談とも本気ともつかない口調に、リンは小さく笑った。二度目、三度目と刃を滑らせるうち、少しずつ、布の動きが滑らかになっていく。
夜、寝る前の短い時間に、二人で刃を拭う。それは、いつしかこの宿の中で、二人だけの静かな習慣になっていった。
数日後、街道の先で拾った金属片によく似た部品が、薬箱の底から見つかった。以前、廃坑で見た偽紋様の欠片と、同じ材質だった。
「これ……」
リンが、それを手に取った瞬間、指先がわずかに震えた。
「大丈夫か」
セレスが声をかける。
「大丈夫。……ただ、こういう時、前は怖くて何も言えなかった。今は、ちゃんと報告しようって、思える」
リンは、それを丁寧に布に包み、セレスへ差し出した。
「調べてほしい。多分、何かの手がかりになる」
「よくやった」
セレスの短い一言に、リンは小さく、けれど確かに、誇らしげな顔をした。
夜、宿に戻ったレイフィアが、傷の手当ての話を聞いて目を丸くした。
「取り違えなかったの、大したものね」
「たまたま」
「たまたまで、あの状況で正しい方を選べる人は少ないわ」
素っ気なく返しながらも、レイフィアの声には、確かな評価が滲んでいた。
第七十一話「薬箱を任された日」をお読みいただき、ありがとうございます。
大きな見せ場ではなく、地味な役目と積み重ねを描く回にしました。リンが少しずつ「任される側」になっていく過程を感じていただけたら嬉しいです。
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