第七十話 私、知ってる
北区で火事――ただの火事ではなさそうです。
ノアは宿に残り、アルトはまだ合流していない。もともとこの日は、久しぶりに普通の依頼――北区の商店の荷運び――を受けに行く予定だった。
依頼主の店へ向かう道すがら、火の手が上がったという知らせが届いた。予定はそこで吹き飛んだ。
北区に着くと、既に人だかりができていた。
燃えているのは、小さな倉庫だった。炎自体は消火活動でどうにか抑えられつつあったが、周囲の空気には、焦げた匂いとは違う、鼻を突く異臭が混じっている。
「この匂い……」
リンが、口元を押さえた。
「知ってるのか」
セレスの問いに、リンは強く頷いた。
「廃坑と同じ。土と鉄と、薬品みたいな匂い」
イリスが、鋭く周囲を見回す。
「つまり、黒ローブ絡み」
「多分。しかも、こんな街中で」
ガロンが低く唸った。倉庫の関係者らしき男が、衛兵に何かを訴えている声が聞こえてくる。
「うちの荷物じゃない! 誰かが勝手に運び込んで――」
「持ち主不明の荷物が、爆発的に燃えた、ということね」
レイフィアが、状況を整理するように言った。
その時、野次馬の一角で、怒声が上がった。
「おい、退けよ! 見世物じゃねえんだぞ!」
柄の悪い数人組が、消火を手伝おうとしていた住民を突き飛ばしていた。火事場泥棒だろう、倉庫の様子を窺いながら、じりじりと近づいている。
「関係ない奴は口出すな!」
一人が、たまたま近くにいた老人の胸ぐらを掴んだ。
「――やめろ」
低い声で、ガロンが割って入る。大剣を抜くまでもなく、その体格と気迫だけで、男の手が緩んだ。
「な、何だお前」
「見りゃ分かるだろう。冒険者だ。今は火事場を荒らしてる暇人の相手より、先にやることがある」
ガロンは男たちを一睨みすると、老人をそっと下がらせた。柄の悪い連中は、舌打ちしながらも人混みに紛れて消えていく。
「相変わらず、迫力あるわね」
イリスが小さく笑うと、ガロンは肩をすくめた。
「暴れる奴の相手も、慣れてる。だが今は――」
ガロンの視線が、倉庫の奥へ向いた。崩れかけた壁の隙間から、黒い光が漏れている。
「あれだ」
セレスが呟くと同時に、リンが前へ出た。
「私、行く」
「危ないぞ」
「知ってるから、行くの。あの光がどう動くか、多分、私にしか分からない」
迷いのない声だった。ミュゼが、ハッとした顔でリンを見る。
「一人じゃ行かせない。一緒に」
「私も行くわ」
イリスが続いた。
崩れた壁の隙間から、四人は倉庫の奥へ踏み込んだ。焦げた木材の合間に、小さな黒い結晶が転がっている。廃坑で見たものより、遥かに小さい――出張所のようなものなのだろう。
「触ると、また同じことになる?」
「多分。でも、今回は違う」
リンは、深呼吸すると、結晶の前にしゃがみ込んだ。
「これ、まだ全部が繋がってない。……壊すなら、今」
「本当に、大丈夫か」
「大丈夫。今の私は、一人じゃないから」
その言葉に、セレスは頷いた。剣を抜き、白銀の光をまとわせる。
結晶の奥で、何かが軋むような音がした。抵抗するように、黒い光が一段と強く脈打つ。
「今よ、リン!」
イリスの声に、リンが素早く結晶の継ぎ目を指差した。廃坑で見た構築物と同じ、脆く歪んだ一点だった。
「そこ! 繋がってる場所、そこだけ弱い!」
「分かった」
「やる」
一閃。指し示された一点へ、狙いを違えず刃が吸い込まれる。甲高い音を立てて結晶が砕け散った。黒い光が、行き場を失ったように霧散していく。
倉庫の外では、住民たちが消火を終え、安堵の声を上げていた。
「……皆さんのおかげで、これ以上燃え広がらずに済みました」
火消しを取りまとめていた男が、深々と頭を下げる。その視線が、ふと、リンで止まった。
「あんた、さっき奥に入っていったよな。何か知ってたのか?」
リンは、一瞬だけ言葉に詰まった。だが、逃げなかった。
「……少し、知ってました。だから、確かめに行きました」
正直な答えだった。男は、驚いたようにリンを見つめ、それからもう一度、深く頭を下げた。
「そうか。……助かった。ありがとうな」
短い言葉だったが、リンにとっては、初めて向けられる種類の感謝だった。
「あんな喋り方、初めてだったな」
帰り道、ミュゼが茶化すように言う。
「いつもの『少しだけ知ってる』みたいな遠慮した言い方じゃなくて、はっきり『知ってました』って言った」
「……そう、だった?」
「そうだよ。あなたにしては、珍しく堂々としてた」
リンは、しばらく黙って自分の手を見つめていた。
「怖くなかった、から。今回は」
「なんで?」
「隣に、みんながいたから」
素直な答えに、ミュゼは満足そうに頷いた。イリスも、小さく口の端を上げる。
「元々の依頼、明日にでも受け直しましょう。荷運びの方も、待ってくれてるだろうし」
「そうだな」
セレスが頷くと、レイフィアが小さく肩をすくめた。
「黒幕の相手ばかりしてると、たまにこういう当たり前のことを忘れそうになるわね。私たち、ただの冒険者でもあるのに」
夕暮れの北区を歩きながら、セレスはふと、崩れた倉庫の方を振り返った。小さな出張所一つが、こんな街中にまで仕込まれていた。だとすれば、他にも同じようなものが、王都のどこかに潜んでいるかもしれない。
第七十話「私、知ってる」をお読みいただき、ありがとうございます。
火事場泥棒の一幕を挟みつつ、リンが自分から動いて事態を収める回にしました。誰かに感謝される経験は、彼女にとってまだ始まったばかりです。
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