第六十八話 地の底からの呼び声
廃坑に足を踏み入れる回です。
少し緊迫した展開が続きます。
王都を出る朝、宿の前でアルトが一人、見送りに立っていた。
「俺は、王都に残る。何かあった時、外との連絡役が必要だろう」
現実的な判断だった。誰も、それに異を唱えなかった。
「頼んだ」
セレスの言葉に、アルトは短く頷いた。ノアもまた、今回は宿に残り、留守を預かることになっていた。誰かがいつでも戻れる場所を守っておく――それもまた、大切な役目だった。
「行ってきます、って言えばいいの」
リンが、少しぎこちなく、そう言った。ノアは、静かに頷く。
「うん。行ってきて」
短いやり取りだったが、リンの表情に、確かな力が宿った。
廃坑の入り口は、蔦に覆われ、朽ちかけた木の柵で塞がれていた。一見すると、長く放置された廃墟にしか見えない。
「見た目通り、ではなさそうね」
イリスが、地面に残るわずかな足跡を指差した。柵の隙間から、人が出入りした痕跡が続いている。
「回復薬、多めに持ってきたから」
ミュゼが、背負った鞄を軽く叩きながら言う。いつもの明るさの奥に、静かな緊張が滲んでいた。
松明に火を灯し、一行は坑道の中へと足を踏み入れた。
冷たく湿った空気が、頬を撫でる。奥へ進むほど、リンの言っていた独特の匂い――土と鉄と、何か薬品めいた匂いが、確かに強くなっていった。
「……この匂い」
リンの声が、わずかに震えた。
「思い出したか」
「まだ、はっきりとは。でも、身体が覚えてる。ここを、歩いたことがある」
一歩進むごとに、リンの呼吸が浅くなっていく。それでも、足を止めることはなかった。
坑道は、思ったよりも整備されていた。壁には、等間隔でランプが取り付けられ、床には荷を運んだと思しき轍が残っている。単なる隠れ家ではなく、確かに機能している拠点なのだと分かった。
やがて、開けた空間に出た。
そこは、かつての採掘場だったのだろう。広い空洞の中央に、黒く濁った結晶のようなものが、鈍く光を放っていた。地下施設で見たものと、よく似ている。
「これ……」
リンが、結晶に近づこうとした瞬間、彼女の紋様が強く反応した。膝からくずおれそうになるのを、セレスが咄嗟に支える。
「大丈夫か」
「……ええ、大丈夫」
そう答えたリンの声は、しかし本人のものではなかった。
いや、正確には――彼女自身の声のまま、その響きだけが、どこか違うものに変わっていた。
『――やはり、ここに来たか』
坑道全体に、くぐもった声が反響した。姿は見えない。それでも、全員が同時に身構えた。
「白い仮面の男か」
セレスの誰何に、答えは返らなかった。代わりに、結晶がゆっくりと明滅を始める。
『随分と、遠くまで来させてしまったな。……お前たちのおかげで、あの子は随分、変わったようだ』
声には、皮肉とも呼べる響きがあった。
『名前まで、持ったそうじゃないか』
リンの身体が、びくりと震えた。声は、まるで、すぐ傍で聞いているかのように、彼女の変化を正確に把握していた。
「見てたのか」
『見ずとも、分かる。お前たちの紋様は、私にとって、いつも共に在るものだからな』
ガロンが、無言で大剣を構えた。イリス、レイフィアも、それぞれ武器を手に、油断なく周囲を見回している。だが、姿の見えない相手には、剣を向ける先すらなかった。
『リン、と名乗ったそうだな』
声が、初めて彼女の名を呼んだ。
『鈴の音を、自分のものにしたいと。……気に入った。お前らしい選択だ』
「……私は、あなたのものじゃない」
震える声で、リンが答えた。それでも、その声には、確かな芯があった。
『そうか。だが、それでも――』
声が、一段と低く、重くなった。
『お前は、まだ完成していない。私の元でなら、その紋様を完全なものにできる。ここにいる誰にも、与えられないものを』
「必要ない」
セレスが、リンを庇うように前に出た。
『必要ない、か。……お前たちは、いつもそう言う。だが、時間が経てば、皆同じことに気づく。私が与えられるものは、他の誰にも与えられない』
「勝手なことを」
ガロンが、低く唸るように言った。
『勝手、とは。私は、あの子を作り、育てた。お前たちは、ただ拾っただけだ』
「拾われて、何が悪いの」
ミュゼが、声を張った。震える声だったが、そこには確かな怒りがあった。
「拾われたから、リンは今、笑えるようになったの。あなたのところにいた時、笑ったことがあった?」
一瞬、声が沈黙した。図星を突かれたような、微妙な間があった。
『……笑いなど、必要ない。生きて、役目を果たせば、それでいい』
「それが、あなたの言う『与えられるもの』の正体ね」
イリスが、静かに、しかし鋭く言った。
『……白銀の本物。お前も、そこにいたか』
声の質が、わずかに変わった。強い興味と、それを上回る何かを孕んだ響きだった。
『いずれ、お前ともゆっくり話す機会を作ろう。だが、今日はまだ、その時ではない』
「絶対に、帰らない」
リンが、震える声を振り絞った。
『そうか。……なら、力ずくで確かめさせてもらおう』
結晶が、急激に光を増した。
坑道の奥、積まれた木箱の陰から、よろめきながら人影が現れた。
粗末な採掘装備を身につけた、中年の男だった。虚ろな目、額には赤黒い偽紋様。おそらくこの廃坑を最初に見つけ、囚われた坑夫の一人なのだろう。手には、採掘用の重い鶴嘴が握られている。
「……っ」
レイフィアの息が、止まった。
「レイフィア?」
「……ああいう目、知ってる」
声が、かすかに震えていた。
「故郷の人たちも、みんな、ああいう目をしてた」
坑夫が、鶴嘴を振り上げ、ふらふらとリンへ向かって歩き出す。
『抵抗すれば、この者から先に壊れる。……どうする?』
声には、明確な嗜虐の色があった。
「殺したら、駄目……」
リンが、青ざめた顔で呟く。
「これも、実験の一部。抵抗できないように、飼われてる人たち」
「分かってる」
レイフィアが、前へ出た。細剣を構える手は、もう震えていなかった。
「今度こそ、間に合わせる」
坑夫が、鶴嘴を振り下ろす。レイフィアはそれを紙一重で躱すと、返す刃で、坑夫の額の偽紋様――その周縁を、ごく浅く、正確に薙いだ。
斬るのではない。解くための一撃だった。
偽紋様が、ジジ、と音を立てて歪む。坑夫の動きが、ぴたりと止まった。
「……お願い、そこまでにして」
レイフィアが、祈るように呟く。
赤黒い紋様が、亀裂のように砕け散った。坑夫の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「生きてる……!」
ミュゼが、すぐさま駆け寄って回復の光を広げた。弱々しいながらも、確かな呼吸があった。
「……できた」
レイフィアの声が、掠れた。
「今度は、間に合った」
『……そうか。お前は、それができるようになったのか』
声に、初めて、明確な苛立ちが滲んだ。
「セレス、紋様を貸して!」
イリスの声に、セレスは頷いた。
「ああ!」
セレスは剣を抜き、白銀の光を刃にまとわせた。ミュゼの回復の光が、疲労した皆の身体を後押しする。四人の力が、一つの流れとなってセレスの剣へ集う。
『まだだ。まだ、終わらせない』
結晶から、黒い靄が噴き上がり、リンを取り囲もうとした。靄は意思を持つように渦を巻き、四方から少女の輪郭を塗り潰していく。
セレスがその中心へ踏み込む。腕に絡みつく靄が、氷のように冷たい。息を吸うことさえ躊躇うほどの重さが、肺の奥まで押し寄せた。
それでも、足を止めなかった。
「――お前は、渡さない」
一歩。また一歩。靄を斬り払っても、すぐに新たな靄が湧き上がる。埒が明かない――そう思った瞬間、紋様の熱が腕を駆け上がった。
一閃。
白銀の光が弧を描き、渦の中心を貫いた。黒い靄が悲鳴のように渦を乱し、結晶が、苦しげに明滅する。
『……力を、増したか』
声に、動揺に似た響きが混じった。
「何度でも、同じことを言う」
セレスは、静かに、しかしはっきりと告げた。
「リンは、渡さない。俺たちが、守る」
結晶の光が、耐えきれないように激しく明滅し、やがて急速に弱まっていく。
『……覚えておけ。お前の帰る場所は、いつでも空けてある』
それだけを残して、声はふつりと途絶えた。結晶は、元の鈍い黒色に戻り、坑道には再び、重い静寂が満ちた。
リンは、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。だが、その目には、先ほどまでとは違う光があった。
「……守るって、言った」
「言った」
「本当に?」
「二回も聞くほど、疑わしいことか」
「ちょっとだけ」
軽口に、張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。リンの頬に、涙とも安堵ともつかないものが伝った。
「絶対に、帰らない」
もう一度、リンは繰り返した。今度の声は、震えてはいなかった。台詞ではなく、たった今、目の前で証明されたばかりの約束だった。
その言葉に、セレスは静かに頷いた。
地の底に残った黒い結晶の気配を背に、一行は坑道を後にした。地上に出た頃には、日はすでに傾き始めていた。夕焼けに染まる空の下、誰もが無言のまま、それぞれの覚悟を胸に抱えていた。それでも、その覚悟は、もう恐れだけでできてはいなかった。
第六十八話「地の底からの呼び声」をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに黒幕本人の声が、リンに直接語りかけ、実力行使に出ました。そして、レイフィアがついに「今度こそ間に合わせる」瞬間を迎えます。故郷で救えなかった過去に、彼女自身の手で一つの答えを出せていたら嬉しいです。
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