第六十五話 鈴、と名乗る
ついに、少女に名前がつきます。
「そういえば、あなた、まだ名前がないのよね」
朝食の席で、レイフィアがふとその話題を切り出した。少女は、スプーンを持つ手を止め、困ったような顔をした。
「……ないと、駄目?」
「駄目ってことはないけど。呼びにくいでしょう、いつまでも『あなた』とか『少女』とか」
「確かに」と、ミュゼが身を乗り出す。「じゃあ、みんなで考えようよ!」
「待て」と、ガロンが箸ならぬスプーンを止めて言う。「本人の意思を無視するな。名前は、本人が決めることだろう」
ミュゼは、少しだけ頬を膨らませた。
「でも、考えるの手伝うくらいはいいでしょ? プリンちゃんとか」
「食べ物の名前をつけるな」
「じゃあ、プディングは?」
「悪化してる!」
レイフィアの即座の突っ込みに、食堂に小さな笑いが起きた。ミュゼはめげずに指を立てる。
「じゃあ、私が真面目に考えてあげる。うーんと……ルナ! あ、待って、ソアもいい! いや、両方合体させてルナソア!」
「悪化どころか意味不明になってる」
「イリスは、何か案あるの」
レイフィアに振られ、イリスは少し考え込む。
「柄じゃないけど……セシルとか、悪くないと思うわ」
「意外と可愛い系」
「うるさいわね」
「なら俺も」と、ガロンが腕を組んで唸る。「がっしりした名前がいいと思うぞ。ガルダとか」
「熊の名前じゃない、それ!」
「熊じゃない、鷲だ」
「どっちでも動物!」
ミュゼが椅子から立ち上がりかけて突っ込む。それを見ていたレイフィアが、ため息をつきながら額を押さえた。
「もう、収拾つかないでしょこれ」
「でも、楽しそうだったな」
セレスが小さく笑うと、レイフィアは何も言い返せず、ただ頬を赤くした。
にぎやかなやり取りを聞きながら、少女は、どこか居心地悪そうに、それでいて温かいものを見るような目で、みんなを見ていた。
「セレスは、何かないの」
イリスに問われ、セレスは少し考えた。
「本人が決めた方がいい。ガロンの言う通りだ」
その言葉に、少女がふと顔を上げた。
「……私が、決めていいの」
「当たり前だろう」
少女は、言葉を探すように口をつぐみ、窓の外から差し込む朝の光を見つめた。
「……ずっと、考えてた」
やがて、ぽつりとこぼれた。
「あの人が来る時、いつも鈴が鳴る。ずっと、怖い音だった。私を縛るための、合図だった」
誰も、口を挟まなかった。
「でも、思ったの。あの音を、怖いままにしておきたくない。……もし名前をつけるなら」
少女は、深く息を吸った。
「『リン』が、いい」
食堂が、一瞬静まった。
「鈴、か」
セレスの呟きに、少女は頷いた。
「怖いものの名前を、自分のものにしたい。そうすれば、もう、あの人だけの合図じゃなくなる」
「いい名前だと思う」
ノアが、静かに言った。短い一言だったが、確かな祝福が込められていた。
「私も、賛成」
イリスも、柔らかく微笑む。
「決まりね、リン」
レイフィアが、そう呼びかけた瞬間、少女――リンの目に、また涙が滲んだ。今度は、悲しみのためではなかった。
「泣くとこ?」
ミュゼが、からかうように、それでいて優しく言う。
「……分からない。ただ、勝手に出てくる」
「いいのよ、それで」
イリスが、リンの肩にそっと手を置いた。
「……変な感じ」
「変か」
「うん。でも、悪くない」
初めて名前で呼ばれたリンは、その響きを確かめるように、小さく繰り返した。
「リン」
まるで、自分自身に言い聞かせるような声だった。
ガロンが、いつも通りぶっきらぼうに言う。
「決まったなら、祝いに何か作るか」
「またご飯?」と、ミュゼが笑う。
「祝い事は、飯だろう」
食堂に、また笑いが起きた。
そこへ、扉が開いてアルトが顔を出した。徹夜明けらしく、目元には隈がある。
「悪い、遅くなった。夜通し調べ物してた」
「アルト、ちょうどいいところに。この子、名前が決まったの」
ミュゼの報告に、アルトは少し驚いた顔をした。
「そうか。……何て名前だ」
「リン、だって」
「リン、か」
アルトは、疲れた顔のまま、それでも柔らかく笑った。
「悪くない名前だ。よろしくな、リン」
ぶっきらぼうな祝福だったが、リンは小さく頷いて、それに応えた。初対面の頃の張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。
食堂の中に、温かい空気が満ちていく。リンは、その輪の中で初めて、心から笑っていた。
セレスは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。誰かが名前を得るというのは、こんなにも空気を変えるものなのかと思った。
第六十五話「鈴、と名乗る」をお読みいただき、ありがとうございます。
長らく「少女」としか呼べなかった彼女に、ついに名前がつきました。恐怖の象徴を自分のものにする、という選び方に、彼女らしい強さが出せていたら嬉しいです。
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