第六十一話 名前のない記憶
少女の過去に、少しだけ触れる回です。
そして、不穏な訪問者の置き土産が見つかります。
宿の共同部屋の窓際に、少女がぽつんと座っていた。目の下の隈が、昨夜より濃い。
「一睡もしてないのか」
「……少しは、した」
嘘だとすぐに分かる声だった。セレスは、少女の隣に腰を下ろした。
「聞いていいか。お前が、覚えてる一番古い記憶」
「……目を覚ましたら、鎖に繋がれてた。それだけ」
淡々とした声だった。
「呼ばれてたのは、『一号』か、『失敗作』」
セレスは、何も言えなかった。
「一度だけ、名前を呼ばれたことがある。誰かが、私じゃない誰かの名前を、私に向かって呼んでた気がする」
少女の声が、初めて震えた。
「思い出したいのに、思い出せない」
「無理に思い出さなくていい」
「……あなたは、いつもそう言う」
「悪いか」
「ううん。……ちょっとだけ、楽になる」
そこへ、ノアが静かに目を開けた。
「……私も、似てる。最初は道具として扱われてた」
「それで、どうなったの」
「ここに、拾われた」
少女は、ノアをしばらく見つめていた。
「……道具じゃなくなる日が、来るの」
「来た。だから、今ここにいる」
少女の目に、涙が滲んだ。悲しみのための涙ではなかった。
「セレスさーん! 起きてる!?」
扉の外から、ミュゼの声が飛んできた。切羽詰まった響きに、少女が涙を拭う間もなく皆が動く。
「どうした」
「ガロンが、朝の見回りで見つけたの。宿の前に、これが」
ミュゼが差し出したのは、小さな鈴だった。黒く塗られ、赤黒い糸のようなものが一本、結びつけられている。
少女の顔が、一瞬で青ざめた。
「……これ」
「知ってるものか」
「使者が、いつも鳴らしてたのと同じ」
ガロンが、腕を組んで低く唸った。
「置いていった、ってことは、また接触してくるつもりか」
「分からない。……でも、放っておくのは、まずい気がする」
イリスが、鈴を布ごと慎重に持ち上げる。
「解析できるかどうか、ギルドの調査部に見てもらいましょう。アルトの伝手が使えるはずよ」
「私も、行く」
少女が、真っ先に立ち上がった。
「怖くないの」
「怖い。……でも、逃げてても、何も変わらない」
その声に、迷いはなかった。
「よし、行くなら腹ごしらえだ」
ガロンが、台所から干し肉を掴んで戻ってきた。
「今から!?」
「腹が減っては、いざという時に動けない。お前らも食え」
呆れるミュゼに構わず、ガロンは全員の手に無理やり押し付けていく。張り詰めていた空気に、束の間の隙間が生まれた。
「……こういう時まで、飯なんだ」
少女が、思わずといった様子で小さく笑った。
「悪いか」
「ううん。……ちょっと、助かる」
ギルドの調査部は、朝から慌ただしかった。アルトの紹介で通された小部屋には、白衣を着た初老の鑑定士が待っていた。
「これは……」
鈴を一目見た瞬間、鑑定士の顔色が変わった。
「知ってるんですか」
「噂には聞いていた。北区で押収された偽紋様の素材と、同じ波長の魔力が漏れている」
鑑定士は、鈴に手をかざしたまま続けた。
「これ単体では、大した力はない。だが、意図的に置いていったなら、狙いは二つ考えられる」
「二つ?」
「一つは、こちらの動きを探る発信器代わり。もう一つは――」
言葉を切った鑑定士の顔に、緊張が走った。
「呼び水だ。誰かを引き寄せるための」
少女の手首が、無意識に押さえられた。
「私を、呼んでる」
「断定はできない。だが、可能性としては高い」
セレスは、少女の手首をそっと確認した。紋様は、まだ静かなままだ。
「壊せば、どうなる」
「分からない。逆に、こちらの位置を知らせる合図になる可能性もある」
「なら、どうすればいい」
鑑定士は、しばらく考えてから答えた。
「一度、私の方で預からせてもらえないか。魔力を封じる術式なら、多少は心得がある」
「お願いします」
イリスが即答した。
「危険なものを、宿に置いておくわけにはいかないもの」
鈴は、鑑定士の手で丁重に布に包み直された。それでも、部屋を出る一行の足取りは、来た時よりも重かった。
「宿の前まで、来られたってことは」とアルトが呟く。「向こうは、俺たちの居場所を、もう完全に把握してるってことだ」
誰も、それを否定できなかった。
窓の外では、昨夜の雨がまだ乾ききっていない石畳が、朝の光に鈍く光っていた。静かな朝は、鈴の一件で、一気に緊張感のあるものに変わっていた。
第六十一話「名前のない記憶」をお読みいただき、ありがとうございます。
少女の過去に少しだけ触れる、重めの回でした。ノアとの対比――同じ「型から外れた」存在でも、歩んできた道が違う二人。この構図は、これからも大事に描いていきたいと思っています。
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