第六十話 鈴の音が近づく夜
使者が動き出しました。
今回は戦闘よりも、駆け引きの話です。
朝食の席で、ミュゼが大きなあくびをした。
「眠い……昨日、遅くまで薬の調合してたから」
「無理するなよ」
「平気平気。それより、今日は何か予定あったっけ」
「特には」
セレスは、答えながら窓の外へ目をやった。
「今日は雨になるな」
灰色の雲が、王都の屋根を重く覆っている。
「雨、嫌い?」
部屋の隅にいた少女が、ふと顔を上げた。
「いや。ただ、鈴の音が聞こえにくくなる。それだけだ」
少女の表情が、一瞬こわばった。
「雨の日は、来ないの」
「多分な。あの鈴、雨に濡れるのが嫌いなんじゃないか」
「……そんな理由?」
「知らん。適当に言っただけだ」
少女の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よし、私は武具屋に行ってくる」
イリスが立ち上がる。
「私は市場」とガロン。「昼はガッツリ食べたいだろ」
「食べたい!」
真っ先に手を挙げたミュゼに、ガロンは苦笑して出かけていった。
その日の昼、ギルドに寄っていたレイフィアは、掲示板の前で、隣の依頼人たちの会話がふと耳に入った。
「北の街道で、黒いローブの連中を見たって話、聞いたか」
「声もかけずに、じっと見てくるだけらしいぜ。気味悪いよな」
レイフィアは、聞こえないふりをしながら、依頼書を握る手に力を込めた。
夕方、雨が降り出す頃には、全員が宿に戻っていた。レイフィアは、その話を誰にもしなかった。
「見張り、交代しましょうか」
窓辺で、イリスが静かに剣を腰に戻す。
「珍しいな」
「別に。眠くなかっただけよ」
窓の外――路地の暗がりを、イリスは黙って見据えていた。
少女は部屋の隅、壁にもたれて膝を抱え、じっと自分の手のひらを見つめていた。
「……眠れないなら、無理に寝なくていいわよ」
レイフィアが、素っ気なく毛布を一枚、少女の肩にかけた。
「心配、してるの」
「別に。風邪ひかれると面倒だから」
「べ、別に」と言いかけて、レイフィアは早口になった。
「……レイフィアさん、優しい」
「聞こえてるわよ、ノア」
部屋の隅から、静かな声が飛んだ。小さな笑いは、長くは続かなかった。
ガロンが、無言で大剣の柄を握り直した。
「そんな睨まなくても、まだ何も来てないわよ」
イリスの声に、ガロンは肩をすくめただけだった。
ミュゼも、杖を胸に抱えたまま黙って扉を見ていた。
コンコン、と扉が鳴る。
ガロンが無言で立ち上がり、剣の柄に手をかけたまま扉を開けた。
立っていたのは、雨に濡れたアルトだった。
「悪い、遅くなった。ギルドの帰りに、妙な人影を見た」
「妙な、とは」
「黒いローブだ。フードで顔は見えなかったが、目が合った瞬間、路地に消えた」
「追ったのか」
「追った。だが、路地に入った途端、もういなかった。まるで、最初から音もなく消えるみたいに」
アルトは、濡れた前髪をかき上げながら続けた。
「気のせいだと思いたかった。だが、こうしてお前らの顔を見て、確信した」
「お前が言ってた、使者か」
セレスの問いに、少女はゆっくりと頷いた。
「私が、行く」
少女が立ち上がろうとするのを、ミュゼの手が止めた。
「一人で行かせるわけ、ないでしょ」
「でも、来るのは私に」
「関係ない。私たちの宿に来た時点で、私たちの話でもあるの」
少女は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「窓の外、まだいる」
イリスの声に、セレスが窓へ近づく。雨に霞んだ路地の奥、小さな鈴だけが揺れていた。
チリン、と一度、鈴が鳴った。
その瞬間、少女が小さく呻いた。手首を押さえ、床に膝をつく。ガロンが駆け寄ろうとしたが、少女は首を振った。
「大丈夫。ただ、反応、しただけ」
ミュゼが、すぐさま駆け寄って手首に淡い光をかざした。腫れや傷はなかった。
窓の外の人影が、ゆっくりと口を動かす。声は届かない。だが、唇の形だけは、はっきりと読めた。
『――戻っておいで』
それだけを残し、人影は路地の闇に溶けるように消えた。
雨音だけが、部屋に響いていた。
「……行ってしまったか」
ガロンが低く呟く。
「追っても、無駄よ」
イリスが、剣から手を離した。
「昔、似たようなことがあった。追った方が、痛い目を見る」
「イリスも、追いかけたことがあるの」
ミュゼの問いに、イリスは少しだけ間を置いた。
「あるわ。……いい思い出じゃない」
それだけ言うと、イリスは剣を鞘に納めた。誰も、それ以上は聞かなかった。
少女は床に座り込んだまま、両手で自分の肩を抱いていた。
「戻れって、どこに」
セレスの問いに、少女は答えなかった。答えを知っていて、それでも口にしたくない顔だった。
「今夜は、もう休め」
「……眠れる、と思う?」
「思わない。でも、隣にいることはできる」
少女は、小さく、本当に小さく笑った。
「……何か、飲むか」
ガロンが、台所からそっと声をかけた。
「まだ、起きてたの」
「寝られる空気じゃないだろう、これは」
少女は頷き、温かい湯気の立つ器を両手で包み込んだ。
「……おいしい」
「そうか」
「何、入れたの」
「秘密だ」
「教えてよ」
「今度な」
短いやり取りだったが、張り詰めていた部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。鈴の音は、もう聞こえない。
それでも、その静けさの方が、かえって不気味だった。
明日、また同じ音が鳴るかもしれない。その時、少女がどんな顔をするのか――セレスには、まだ分からなかった。
第六十話「鈴の音が近づく夜」をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに使者が姿を現しました。戦いではなく、たった一言の呼びかけ。それだけで、これだけの緊張感を出せたなら嬉しいです。
次回、少女の過去にもう少し踏み込んでいけたらと思っています。
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