第五十八話 名前のない食卓
鍋の続きです。
今日は戦わない話回です。
宿の共同キッチンに、湯気の匂いが満ちていた。
昨日の激戦が嘘だったかのように、鍋の中身はことこと静かな音を立てている。窓の外はもう夕方で、王都の屋根の輪郭が橙色に滲んでいた。
鍋を囲む輪に、少女が加わった。
椅子は一つ足りなくて、ガロンが黙って自分の分を譲った。
「……いいの?」
「座れ。減るもんじゃねえ」
短い返事だったが、ガロンの目は、少女ではなく鍋の方をじっと見ていた。誰かに何かを差し出す時、いつもそうだ。目を合わせない代わりに、手だけは丁寧に動く。
少女は戸惑ったまま、端の椅子に腰を下ろす。差し出された器を、両手で包むように受け取った。湯気が顔にかかると、初めて見るもののように、少しだけ目を細めた。立ち上る匂いは、香草と、じっくり煮込んだ肉の甘さが混じったものだった。
「ねえ、味どう?」
「……知らない味」
「でしょ! ガロンの鍋、絶品なの」
「お前の感想はいつも語彙が死んでるな」
「うまいはうまいでしょ」
言い切って、ミュゼはもう一口すする。その隣で、レイフィアが少女の器にちらりと視線をやった。野菜の欠片だけが、ずっと端に寄せられたままだったからだ。
「野菜、残してもいいのよ」
「……分かる、の?」
「見れば分かるわ。ずっと端に寄せてる」
少女は、ばつが悪そうに視線を落とした。
「初めて食べるものが、多いから」
「なら、少しずつでいいわ」
素っ気ない口調のまま、レイフィアは自分の器から肉だけを少女の皿へ移した。動作に迷いはなかった。まるで、これが特別なことではないというように。
「これは平気でしょう」
「……ありがとう」
小さな声だった。誰も拾わなかったが、誰の耳にも届いていた。
窓際でその様子を眺めていたイリスが、ふっと息をつく。
「随分、板についてきたじゃない」
「なにが」
「面倒見るの、レイフィア」
「別に、面倒なんて見てないわ」
耳が赤い。誰も指摘しなかった。
部屋の隅で、ノアが静かに口を開いた。
「……前は、あんな風に椅子、譲らなかった」
短い言葉だったが、ガロンの手が一瞬止まった。
「そうだったか?」
「そうでした」
ノアは、それだけ言って、また黙り込む。けれどその横顔は、どこか穏やかだった。
窓から差し込む夕方の光が、部屋の中を淡く染めていく。鍋の湯気と、誰かの笑い声と、少女の小さな器の音。それだけで、今日という日が少しだけ柔らかくなった気がした。
ガロンだけが、その輪から少し離れた場所で、空になった鍋を静かに拭いていた。誰かのために作った料理が、こうして誰かの器へ渡っていく。それだけのことに、彼がどんな思いを重ねているのか、この場の誰も知らない。
* * *
翌朝、宿の食堂にアルトが現れた。外套には、まだ夜露の匂いが残っている。
「衛兵への報告、終わったぞ」
「ご苦労」
「お前が労うと調子狂うな……って、誰だ、それ」
アルトの視線が、少女で止まった。
「保護してる子だ」
「保護って、お前ら本当に何でも拾うな」
「拾われたのは、あなたも同じでしょう」
ミュゼが横から口を挟む。
「俺は拾われてねえ! 自分の意志でここにいる!」
「褒めた?」
「褒めてねえよ!」
食堂に小さな笑いが起きた。アルトは椅子を引き寄せながら、少女に軽く会釈だけした。名前も知らない相手に対して、それ以上踏み込まないところが、彼らしいと言えば彼らしかった。
少女は、その空気を少し離れた場所から見ていた。戸惑うような、それでいて嫌ではなさそうな表情だった。パーティーの誰かがふざけ、誰かがそれに突っ込み、また誰かが笑う。その繰り返しを、彼女はまだ、どう受け止めればいいか分からずにいるようだった。
* * *
昼過ぎ、セレスは一人でギルドへ向かった。中央区の被害報告を確認するためだ。
石畳の上には、まだ崩れた壁の破片が積まれたままの場所もある。行き交う住民の顔に、以前より張り詰めたものが見えた。
「崩落は最小限、死者なし。ただ、住民の間じゃ噂が広まってる」
受付嬢は、声を落として言った。
「『仮面の男の声を聞いた』って人が、何人か」
「……そうか」
「セレスさんたちのおかげで大事にはなりませんでしたけど、正直、次があったらと思うと」
言葉を濁して、受付嬢は目を伏せた。街の空気の底に、まだ拭いきれない不安が沈んでいるのが、はっきりと伝わってきた。掲示板の依頼票の数さえ、いつもより少ない気がした。
「セレスさんたちが今日も王都にいてくれるだけで、正直ほっとするんですよね。私が言うことでもないですけど」
受付嬢は、それだけ言うと、少し照れたように帳簿へ視線を戻した。何気ない一言だったが、セレスの中に小さく残った。守るべきものが、また一つ増えたような感覚だった。
ギルドを出た帰り道、ふと足を止めた。遠く、路地の奥から――微かに、鈴の音がした気がした。
振り返っても、誰もいない。人通りの絶えた裏路地に、乾いた風が吹き抜けるだけだった。気のせいか、と自分に言い聞かせる。だが、手首の紋様が、ほんの一瞬だけ熱を持った。
* * *
宿に戻ると、少女が一人、窓辺に座っていた。
「何か、あった?」
「いや。別に」
「嘘」
少女は、まっすぐにこちらを見た。感情の読めない青白い瞳の奥に、今日は隠しきれない揺らぎがあった。
「今、紋様が反応した。私にも、分かる」
セレスは、答えに詰まった。
「……鈴の音が、した気がした。それだけだ」
少女の顔から、すっと表情が消えた。
「あの人の、癖」
「知ってるのか」
「知ってる。あの音がした後は、いつも――」
少女は、そこで言葉を止めた。
「いつも、何だ」
「……何でもない。気のせいかもしれない」
明らかに、何かをのみ込んだ顔だった。
窓の外、王都の空は、いつも通り静かに暮れていく。赤く染まった屋根の連なりを眺めながら、セレスはしばらく黙っていた。今日一日で少しだけ近づけた距離と、その裏側でまだ何も話してくれない部分と――両方が、同じ夕焼けの中に並んでいた。
どちらも急かすつもりはない。それでも、いつかこの子が自分から続きを話してくれる日が来ればいい、と思った。
「……お前は、いつまでここにいるつもりだ」
我ながら不器用な聞き方だと思った。少女は、少しだけ驚いた顔をした。
「分からない。いていいのかも、分からない」
「聞いたのは、そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
「いたいだけ、いればいい。理由なんて後からでいい」
少女は、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。それは、ため息にも、笑いにも似た音だった。
「本当に、変な人」
「二回目だな、それ」
「二回言うくらい、変ってこと」
窓の外で、鐘の音が遠く響いた。夕刻を告げる、いつもの音だった。今日はまだ、鈴の音は聞こえていない。
ところで、この子にはまだ名前がありません。もし読者の皆さんなら、どんな名前を付けますか?よければ感想で教えてください!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価でも応援してもらえると嬉しいです!
第五十八話「名前のない食卓」をお読みいただき、ありがとうございます。
戦いの後の、束の間の日常回でした。鎖の少女が少しずつパーティーに馴染んでいく一方で、街には静かな不安が広がりはじめています。そして最後に聞こえた鈴の音――黒幕の気配は、もうすぐそこまで来ているのかもしれません。
ところで、この子にはまだ名前がありません。もし読者の皆さんなら、どんな名前を付けますか?よければ感想で教えてください!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価でも応援してもらえると嬉しいです!




