第五十七話 名もなき少女への問い
帰り道、ガロンが「飯にするか」と言い出しました。
こんな時でも鍋は正義らしいです。
宿に戻る道中、誰も口数が多くなかった。
アルトは衛兵への報告のため、途中で別れた。「明日には合流する」と、それだけ言い残して。
『少女を、返してもらう』
『でなければ、街ごと壊すまでだ』
白い仮面の男の声が、まだ耳の奥にこびりついている。
「……飯にするか」
沈黙を破ったのは、ガロンだった。
「こんな時に?」
「こんな時だからだ。腹が減ってちゃ、頭も回らねえ」
意外にも、誰も反対しなかった。
* * *
宿の共同キッチンで、ガロンが手早く鍋を温め直す。
出来上がったのは、朝に作りかけていたものの続きだった。
「……あ、この匂い」
真っ先に反応したのはミュゼだった。
戦闘の緊張が抜けきらない顔のまま、鼻だけはしっかり利いている。
「味見、まだ早い?」
「お前、今そういう空気か?」
「空気とお腹は別」
きっぱりと言い切るミュゼに、ガロンは毒気を抜かれたように小さく笑った。
戦場では滅多に見せない、ふっと力の抜けた顔だった。
「……ほら」
差し出された器を、ミュゼが両手で受け取る。
「うまい」
一口すすって、素直な感想がこぼれた。
その空気に、張り詰めていた部屋の温度が、少しだけ下がった気がした。
部屋の隅、壁に寄りかかっていたノアが、静かに口を開いた。
「……あの子、まだ怖がってると思います」
誰へともなく呟かれた言葉に、一瞬だけ空気が引き締まる。
「分かってる」
セレスが短く答えると、ノアは小さく頷いて、また黙り込んだ。
窓際に立っていたイリスは、何も言わずに中央区の方角を見つめている。
その横顔には、いつもの冷静さの下に、かすかな警戒が滲んでいた。
「セレス。あの子のところ、行くんでしょ」
レイフィアが、階段の方へちらりと視線を向けて言う。
「ああ」
「……私も、行くわ」
「別に無理しなくても」
「無理なんてしてない。ただの確認よ」
素っ気ない言い方だったが、足はもう階段の方を向いていた。
* * *
少女の部屋は、静かだった。
ノックをすると、少し間を置いて「……どうぞ」と声が返ってくる。
扉を開けると、月明かりだけが差し込む薄暗い部屋だった。灯りをつける気配もなかったのだろう。
ベッドの上、少女は膝を抱えたまま、窓の外を見ていた。
中央区の方角――さっきまで、黒い靄が立ち上っていた方だ。その横顔は、彫像のように動かない。
「聞こえてたか」
「……ええ」
短く答えて、少女はようやくこちらを見た。
感情の読めない、青白い瞳。
けれど今日は、そこにわずかな揺らぎがあるように見えた。
「街ごと壊すって、言ってたわね」
「ああ」
「それは、私のせい」
「そうとも限らない」
「そうよ」
少女は、はっきりと言い切った。
「私を連れ去ったのはあなたたち。だから、あの男はこう言った。返さないなら、壊すって」
「……お前が謝ることじゃない」
セレスは、少女の正面に立った。
「あの男が勝手に決めた脅し文句だ。お前が背負う理由はない」
「理由なら、ある」
少女の声が、初めて少しだけ強くなった。
「私は、あの男に作られたものだから」
その声には、諦めとも覚悟ともつかない静けさがあった。まるで、何百回も自分に言い聞かせてきた言葉のように。
部屋の空気が、静かに張り詰めた。
レイフィアが、無言でセレスの隣に並ぶ。
「詳しく聞かせてくれ」
「……多くは分からない。ただ、あの結晶と同じ場所で、私は目を覚ました。名前もなく、目的も分からないまま」
少女は自分の手のひらを見つめた。
「分かるのは、私の紋様が、あなたの紋様と似ていること。そして、あの男が――『白銀の本物』と、あなたを呼んでいたこと」
セレスは、自分の手首に触れた。
白銀の紋様は、今もまだ微かに熱を持っている。
「本物、ってことは」
「あなたじゃない何かが、偽物として作られている。多分、それが私」
淡々とした声に、かえって重みがあった。
「だから、いずれ私はあなたたちの敵になる。そう言ったでしょう」
「聞いた」
「なら――」
「それでも」
セレスは、少女の言葉を遮った。
「今のお前は、まだ敵じゃない」
「……」
「街を壊すとか壊さないとか、そんな理由でお前を突き出す気はない。それだけは、はっきりさせておく」
少女は、しばらく黙り込んだ。
「……変な人」
「よく言われる」
「そうじゃなくて」
少女は、初めてわずかに目を伏せた。
「普通は、怖がるか、利用しようとするか。あなたたちは、どっちでもない」
「利用するには、面倒くさすぎるでしょ、あなた」
レイフィアが、横から口を挟む。
素っ気ない言い方だったが、その視線はやはり柔らかかった。
少女は、その言葉に小さく――本当に小さく、口の端を動かした。
笑ったのかどうかも分からないくらいの、僅かな変化だった。
「名前、まだ決めてないんだったな」
「必要ない」
「必要ある。いつまでも『お前』呼びは不便だ」
「……好きにすれば」
「じゃあ、少し考えとく」
その時、階下から足音が響いた。
「――おい、鍋あるぞ! 冷める前に来い!」
ガロンの声だった。
間の悪さに、レイフィアが小さく吹き出す。
「……行くの?」
少女が、戸惑ったように尋ねた。
「行くぞ」
「私も?」
「お前も」
セレスは、少女に向かって手を差し出した。
少女は、その手をしばらく見つめてから――迷うように、けれど確かに、自分の手を重ねた。
* * *
その夜、王都の外れ。
崩れた廃教会の奥で、仮面の男が静かに立っていた。
『……壊れたか、あの端末も』
呟く声に、応える者はいない。
『まあいい。反応は、確認できた』
男は、懐から小さな黒い結晶を取り出す。
それは、セレスの紋様と同じ光り方で、微かに明滅していた。
『白銀の本物――やはり、あちらにいる』
『次は、もう少し丁寧に迎えに行くとしよう』
その声には、焦りも怒りもなかった。
ただ、確信だけがあった。
男は結晶を懐にしまうと、ゆっくりと踵を返す。フードの奥で、口元だけが微かに動いた気がした。
夜の闇が、その後ろ姿を静かに飲み込んでいった。
第57話「名もなき少女への問い」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、中央区での戦いの後、鎖の少女と向き合う話でした。「作られた偽物」という彼女自身の言葉、そして「敵になっても構わない」と告げるセレスの答え――二人の関係が、少しずつ動き始めています。
そして最後に、仮面の男の視点が初めて描かれました。彼が何を考え、何を目的としているのか。物語はいよいよ核心に近づいていきます。
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