第五十六話 街を覆う影
ガロンの鍋は、結局誰も片付けられませんでした。
中央区に着いてすぐ、そんなことを考えている場合ではなくなりましたが。
ミュゼは、たぶん今も鍋の行方が気になっています。
大通りを抜けた先、広場は黒い靄に包まれていた。
昼間だというのに、空気が重く沈んでいる。悲鳴も、逃げ惑う足音も、その靄に飲み込まれて遠く聞こえた。
靄の中心で、何かが蠢いている。
人の形をしているようで、輪郭は絶えず揺らぎ、黒い糸が幾重にも絡み合って出来ていた。近づくほどに、湿った土と焦げた匂いが混じった、嫌な臭気が鼻をついた。
「……なんだ、あれ」
ガロンが低く唸る。
黒い糸の塊は、ゆっくりと頭のようなものを持ち上げた。
顔はない。
ただ、糸が集まって出来た虚ろな穴が二つ、こちらを見ている。
「下がって! あれ、危ないやつです!」
ミュゼの声に、逃げ遅れていた住民たちが慌てて路地へ駆け込んでいく。
「アルト、状況は」
「衛兵が食い止めてる。だが、長くは持たない」
アルトが剣を構えながら答える。
「セレス、お前に何か視えるか」
俺は白銀の紋様に意識を集める。
紋様は、昨夜からずっと熱を持ち続けていた。
そして今、その熱が明らかに強くなっている。
「……向こうも、俺に気づいてる」
黒い糸の塊が、まるで応えるようにびくりと震えた。
「セレスに反応してる?」
イリスが眉を寄せる。
「厄介ね」
「厄介で済むといいけどな」
レイフィアが細剣を構え直す。
黒い糸の塊が、咆哮のような音を発した。
音というより、無数の何かが同時に軋むような、耳障りな響きだった。
「来るぞ!」
ガロンの声と同時に、糸の塊から数本の太い触手が伸びた。
「散開!」
イリスの指示で、全員が左右へ跳ぶ。
触手が地面を叩き、石畳が砕けた。破片が頬をかすめ、俺は舌打ちを飲み込む。土埃の向こうで、仲間たちの気配だけを頼りに次の一手を探る。
「アルト、右!」
「言われなくても!」
アルトが跳び込み、触手の一本を斬り払う。
だが糸はすぐに再生し、絡みつくように彼の足元を狙った。
「危ない!」
心臓が跳ねた。間に合わない、そう思った瞬間だった。
ノアが手をかざす。
色のない光が触手を包み込み、束の間、動きを止めた。
「今!」
その隙にアルトが飛び退く。
「助かった」
「無事なら、いい」
ノアが短く言って、小さく笑う。
「ガロン、正面を頼む!」
俺は叫びながら、隙のできた敵の正面へ視線を送った。
「おう!」
ガロンが大剣を構え、真正面から突っ込む。
大剣が糸の塊を薙ぐ。
だが、切れた端から新しい糸が伸び、傷はすぐに塞がった。
「切っても意味がない……!」
「なら、燃やすか凍らせるか」
イリスが冷静に言う。
「あるいは、糸そのものを止める」
俺は糸の塊を見据えた。
昨夜の鎖の少女の言葉が蘇る。
『この結晶は、末端。本体は、王都のもっと深くにいる』
これも、同じだ。
命令を受けて動いているだけの、末端の一つ。
「中心に、核があるはずだ」
「見えるのか?」
「……いや。だが、繋がってるなら、辿れる」
紋様が強く輝く。
白銀の光が、黒い糸の流れを浮かび上がらせた。
糸の塊の中心、ちょうど胸のあたりに、小さな黒い結晶が埋め込まれているのが見えた。
「あそこだ!」
「言うだけなら簡単だがな!」
ガロンが叫びながらも、大剣を構え直す。
「私とレイフィアで足止めするわ」
イリスが前へ出る。
「ガロンとアルトで、隙を作って」
「セレスとノアは、核を狙って」
「ミュゼは全体の回復と補助を」
指示は瞬時に決まった。
誰も異論を挟まなかった。
五人と一人が、それぞれの役割で動き出す。
イリスとレイフィアが左右から斬りかかり、注意を引く。
ガロンとアルトが、隙をこじ開けるように連携して攻撃を叩き込む。
「今だ、セレス!」
ガロンの声に、俺は地を蹴った。
ノアが並走し、無色の光で行く手の糸を消し飛ばす。
核まで、あと数歩。
その瞬間、黒い糸の塊が、耳障りな声を発した。
いや、声というより――誰かの言葉を、無理やり紡いでいるような音だった。
『……白銀の、本物』
聞き覚えのある響きに、俺は一瞬、動きを止めかけた。
白い仮面の男の声。
あの日、実験体と共に聞いた声と同じだった。
『やはり、そちらにいたか』
「お前、あの時の……!」
『少女を、返してもらう』
『でなければ、街ごと壊すまでだ』
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
「させるかよ……!」
ガロンが吼える。
俺は迷わなかった。
「返す気はない」
『……そうか』
「だから、次はこっちから行く」
白銀の紋様が、これまでで一番強く輝いた。
剣を核へ突き立てる。
「返してほしいなら、お前がここに来い」
切っ先が核を貫いた感触が、柄を通して腕に伝わる。硬い殻を割るような、鈍い手応えだった。
黒い結晶が、悲鳴のような音を立てて砕けた。
糸の塊が、内側から崩れていく。
黒い霧が空へ散り、耳障りな声も、途切れるように消えた。
静寂が戻る。
崩れた石畳の上に、誰も、それ以上動く者はいなかった。
「……終わった、のか?」
ミュゼが恐る恐る呟く。
「ああ」
俺は剣を鞘へ収めた。
けれど、胸の奥にはまだ、あの声が残っていた。
『少女を、返してもらう』
『でなければ、街ごと壊すまでだ』
これは、警告だ。
そして、始まりに過ぎない。
仲間たちの顔にも、勝利の高揚より、次に来るものへの緊張が色濃く浮かんでいた。ガロンは無言で大剣に絡みついた黒い糸の残滓を払い、イリスは崩れた広場を見渡している。
「宿に戻るぞ」
俺は仲間たちを見渡した。
「あの子に、話を聞かないといけない」
誰も、それ以上は何も言わなかった。ただ、それぞれの足取りが、来た時よりも重かった。
第56話「街を覆う影」をお読みいただき、ありがとうございます。
中央区に現れた黒い糸の魔物との戦いは、セレスたちの連携で決着しましたが、そこに響いた「仮面の男」の声が、新たな不穏さを残しました。「少女を返してもらう、でなければ街ごと壊す」——この宣戦布告のような言葉に、物語はいよいよ黒幕との対決へ向かい始めます。
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