第五十五話 目を覚まさない理由
ガロンが台所に立ちました。
理由は「腹が減っては戦ができない」から。
ミュゼは味見の名目で、もう三口食べています。
たぶん、味見の域はとっくに超えています。
ガロンの手には、大きな鍋があった。
「……ガロン、それ本当に料理か?」
「戦えなきゃ話にならねえ。飯は大事だ」
イリスの問いに、ガロンは真顔で答えた。
湯気の向こうから漂う匂いは、思いのほか香ばしい。
「味見していい?」
「まだ早い」
「もう三口目だけど」
「聞いてない」
ミュゼは悪びれもせず、また匙を伸ばした。
ギルド裏の宿の共同キッチンは、朝から賑やかだった。
昨夜、地下から連れ帰った少女は、二階の一室で眠ったままだ。
「まだ、目を覚まさないのね」
レイフィアが階段の方をちらりと見て呟いた。
「心配なのか?」
「別に。ただの確認よ」
「そうか」
「……もう少しだけ、様子を見てくるわ」
そう言って、レイフィアは誰にともなく立ち上がった。
素っ気ない言い方の割に、足取りは早かった。
俺はそれを見送りながら、白銀の紋様に触れる。
昨夜からずっと、微かな熱を持ち続けていた。
まるで、あの子とまだ繋がっているみたいに。
「セレス、お前も何か食っとけ」
ガロンが器を差し出してくる。
湯気の立つそれを受け取り、一口すすった。
思ったよりずっと、優しい味だった。
「……うまいな」
「だろ」
ガロンが少しだけ、口の端を上げる。
戦場では滅多に見せない顔だった。
「イリスも」
「……もらうわ」
イリスは静かに器を受け取った。
かつて金ランクに至るまでの道のりを、彼女はほとんど語らない。
けれど今は、湯気の向こうで少しだけ表情が緩んでいた。
「昔、こういう温かい飯を、誰かと囲んだ気がするの」
ぽつりと、そんな言葉が漏れる。
「誰かって?」
「……さあ。忘れたわ」
そう言って、イリスは話を切り上げた。
まだ踏み込むには早い。
俺はそれ以上、聞かなかった。
そのとき、階段の上からノアが駆け下りてきた。
「目を、覚ましました」
その一言で、空気が変わる。
ミュゼが匙を置き、ガロンが鍋を火から下ろした。
俺たちは急いで二階へ向かった。
部屋の中、少女はベッドの上で膝を抱えていた。
青白い瞳が、こちらを見る。
昨夜と同じ、感情の薄い目だった。
「……目、覚めたか」
『……なぜ』
少女は小さく呟いた。
『なぜ、殺さなかった』
「殺す理由がない」
『私は、あなたたちを殺そうとした』
「結晶に操られてただけだろ」
『違う』
少女は首を振った。
『あの結晶がなくても、私はいずれ、あなたたちの敵になる』
その声には、迷いがなかった。
まるで、それが決まった未来だと知っているかのように。
「……どういう意味だ」
『言葉通りよ』
『だから、優しくしないで』
『優しくされると、迷うから』
その一言に、部屋の空気がわずかに重くなった。
ミュゼが一歩前に出る。
「迷っていいと思う」
「ミュゼ」
「だって、迷うってことは、まだ選べるってことだから」
少女は答えなかった。
ただ、視線をわずかに逸らしただけだった。
レイフィアが窓辺で腕を組む。
「あんたが敵になろうがなるまいが、今は客人よ。せいぜい、うちの飯で太りなさい」
素っ気ない言葉だったが、その視線は思いのほか柔らかかった。
少女は、初めて僅かに目を見開いた。
「……変な、人たち」
『……分からない』
小さく、そう呟く。
その時、階下から慌ただしい足音が響いた。
ギルド職員が、息を切らして駆け込んでくる。
「大変です……!王都中央区で、正体不明の魔物の目撃報告が多発していて……冒険者ギルドに緊急召集がかかっています」
「正体不明?」
「はい。しかも、目撃者の話では……黒い糸のようなものを纏った魔物だと」
俺とガロンは、顔を見合わせた。
地下で見た、あの黒い糸と同じもの。
『……もう、動き出したの』
少女の呟きに、俺たちは同時に振り返った。
『言ったでしょう。本体は、王都のもっと深くにいる』
『あなたたちが逃げたことで、次の一手を打ってきた』
窓の外、王都中央区の方角から、微かな悲鳴が風に乗って届いた気がした。
俺は剣を掴み、少女に向き直る。
「お前の名前、まだ聞いてなかったな」
『……名前なんて、ない』
「なら、こっちで呼ばせてもらう」
『……好きにすれば』
少女は目を伏せたまま、小さく答えた。
その態度はまだ硬いままだったけれど、さっきよりほんの少しだけ、刺々しさが薄れていた気がした。
「行くぞ、みんな」
ガロンが鍋を置いて、大剣を担ぐ。
イリスとレイフィアが同時に頷き、ミュゼが杖を握り直す。
ノアもまた、静かに拳を握った。
五人と、一人。
まだ名前のない少女を宿に残して、俺たちは王都中央区へと駆け出した。
大通りはすでに騒然としていた。
避難する住民とすれ違いながら、俺たちは中央区を目指す。
遠くに、黒い靄のようなものが立ち上っているのが見えた。
「セレス」
聞き慣れた声に、俺は足を止めた。
崩れた露店の陰から、アルトが剣を構えたまま歩み寄ってくる。
「アルトも来てたのか」
「北区の件から、ずっと動いている。……お前たちは」
「こっちにも事情がある」
短くそう答えると、アルトは小さく頷いた。
「詳しい話はあとだ。今は、あれをどうにかしないと」
視線の先、黒い靄の中心で何かが蠢いている。
「一人でやるつもりか」
「まさか」
アルトはわずかに口の端を上げた。
「お前たちが来るのは分かっていた」
その物言いに、ミュゼが小さく笑う。
「アルトも、素直になったよね」
「うるさい」
短い返事だったが、拒絶の響きはなかった。
「行くぞ」
ガロンが大剣を担ぎ直す。
イリスとレイフィアが並び、ノアも拳を握った。
六人は、黒い靄が立ち上る方角へ、共に走り出した。
第55話「目を覚まさない理由」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は鎖の少女が目を覚まし、「いずれ敵になる」という不穏な言葉を残しました。それでも仲間たちは、それぞれのやり方で彼女に接します。
そして王都中央区では、早くも黒い糸を纏う魔物が出現。次回はその現場へ向かう回になる予定です。
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