第五十二話 黒い糸の先
暴走しているのは、子どもたちの魔力だけではありません。
誰かが押しつけた「命令」があるのなら。
セレスたちは、その声の正体まで追いかけます。
アルトは試験会場に残り、他の推薦組と共に後続の対応に当たっていた。
二階から噴き上がった黒い魔力は、天井を突き抜けるように孤児院の廊下へ広がった。
床板が軋む。
一階にいる子どもたちの悲鳴が、また大きくなった。
「う、あ……っ、やだ……やめて……!」
「落ち着いて! 大丈夫、ここにいるから!」
ミュゼが両手を広げ、泣き叫ぶ子どもたちを守るように立っていた。
淡い緑色の光が、彼女の手のひらから何本も伸びている。
回復魔法というより、暴れそうになる魔力を包み込むための光だった。
けれど、黒い糸はその光に触れるたび、ぬるりと形を変える。
まるで、生き物みたいに。
「切る!」
レイフィアが短く告げ、細剣を振り抜いた。
銀の軌跡が、階段へ垂れ下がる黒い糸を断ち切る。
――はずだった。
「……なに?」
切断された糸は床へ落ちず、二つに裂けた先端を蠢かせた。
そして、増えた。
一本だったものが二本に。
二本だったものが、四本に。
「冗談だろ……」
ガロンが大剣を構え、階段の前へ立つ。
「斬るほど増えるってのは、さすがに反則じゃないか?」
「ただの魔力じゃない」
イリスは鋭く二階を睨んだ。
「命令そのものが、糸の形を取っている。力任せに壊せば、子どもたちの中に残ったものまで暴れるかもしれないわ」
セレスは黙ったまま、自分の左手首を押さえた。
白銀の紋様が、熱を持っている。
痛いほどではない。
だが、いつものように何かの力を借りようとしている熱とも違った。
引かれている。
黒い糸の奥にある、何かへ。
「セレス……」
隣で、ノアが小さく息を飲んだ。
灰銀色の髪が、黒い魔力の風に揺れている。
その胸元、服の下に隠された不完全な紋様が、苦しげに淡く明滅していた。
「これ……知ってる」
「黒ローブの命令か」
セレスが尋ねると、ノアはすぐには頷けなかった。
唇を噛み、震える指先を握りしめる。
「命令って言葉じゃない……もっと、嫌なもの」
ノアは二階を見上げた。
「頭の中に、ずっと入ってくるんです。怖くても、痛くても、逆らったらもっと苦しくなるって……だから、ちゃんとしなきゃって……ちゃんと、言うことを聞かなきゃって……」
「ノア」
ミュゼの声が飛んだ。
彼女は子どもを抱きしめたまま、ノアへ視線を向けている。
「もう、聞かなくていいんだよ」
言葉は優しかった。
けれど、その目には泣きそうなほどの怒りがあった。
「そんなの、命令じゃないよ。ただ怖がらせて、動けなくしてるだけ。ノアちゃんも、この子たちも……悪くない」
ノアの目が揺れた。
何かを言おうとして、言葉にならない。
そのときだった。
ぎしり、と。
二階の奥から、重い音が響いた。
廊下の突き当たり。
誰も使っていないはずの物置部屋の扉が、ひとりでに開く。
中は真っ暗だった。
その闇の奥で、黒い糸が何本も絡まり合い、小さな結晶を吊り下げている。
掌に乗るほどの、小さな黒い石。
けれど表面には、見覚えのある歪な線が刻まれていた。
「偽紋様……」
セレスの声が低くなる。
ノアの紋様と同じ。
いや、あれよりさらに粗末で、乱暴な刻み方だった。
子どもたちの魔力を吸い上げ、無理やり暴れさせるためだけに作られた道具。
「中継器みたいなものね」
イリスが剣を構えたまま言う。
「ここから命令を流して、子どもたちの魔力に干渉している」
「なら、壊せば終わりだな」
ガロンが前へ出ようとした。
「待て」
セレスは短く止めた。
「壊すだけなら、たぶん簡単だ。でも、命令が子どもたちの中に残っていたら意味がない」
「じゃあどうするの?」
レイフィアが問いかける。
セレスは答えず、黒い結晶を見つめた。
白銀の紋様が熱い。
いつもなら、相手の本質を掴むための熱。
借りるべき力を探すための熱。
けれど今、紋様が求めているのは強さじゃない。
黒い糸の向こうにいる子どもたちの恐怖。
ノアがずっと抱えていた、逆らえなかった痛み。
その流れを、理解しろと言っている。
「ノア」
「……はい」
「手、貸して」
ノアは一瞬、目を見開いた。
「私が?」
「ああ。これはノアが知ってるものだ。俺だけじゃ、たぶん届かない」
セレスは左手を差し出した。
白銀の紋様が、淡く光る。
ノアは自分の胸元を押さえた。
怖いのだろう。
黒い命令へ近づくことも。
また自分の中を覗かれることも。
同じ痛みを思い出すことも。
それでも。
ノアはゆっくりと、自分の手をセレスの手に重ねた。
「……逃げません」
小さな声だった。
だが、確かに聞こえた。
「この子たちが、私みたいに怖いままなのは……嫌です」
「うん」
ミュゼが頷く。
「一緒に助けよう」
白銀の光が、セレスとノアの手の間から溢れた。
次の瞬間、セレスの意識は黒い糸の中へ引き込まれる。
――怖い。
――痛い。
――逆らったら、ひどいことになる。
幼い声が、いくつも重なって響いた。
泣き声。
助けを呼ぶ声。
誰にも届かないと思い込んだ、小さな心の声。
その奥に、冷たい言葉があった。
――従え。
――暴れろ。
――お前たちは、器だ。
黒い命令は、ただ繰り返していた。
子どもたちの心に恐怖を植えつけ、その隙間へ無理やり入り込んでいる。
セレスは歯を食いしばった。
「……くだらない」
呟くと、黒い声が一瞬だけ揺らいだ。
「怖がらせて従わせるなんて、命令ですらない」
白銀の光を、黒い糸へ伸ばす。
断ち切るのではない。
一本ずつ、ほどいていく。
命令と恐怖の間に絡まった、細い細い結び目を探して。
「ノア。どこが一番、苦しかった?」
問いかけると、隣にいるノアの気配が震えた。
「……胸の奥です。苦しくて、息ができなくなって……それで、言われた通りにしないと、もっと苦しくなるって」
「そこだ」
白銀の光が、黒い糸の中心へ届く。
ノアの胸元の偽紋様が、苦しげに光った。
けれど、今度は黒に染まらない。
ノアの中から、かすかな光が返ってきた。
「私は……道具じゃない」
ノアの声が響く。
震えていた。
それでも、今度は自分の意志で言っていた。
「この子たちも、道具じゃない!」
白銀の光が弾けた。
黒い糸の中心にあった結び目が、ぷつりと切れる。
結晶が甲高い音を立ててひび割れた。
一階で、子どもたちの叫び声が止まる。
黒い魔力は、行き場を失ったように揺らめき――白銀の光に包まれながら、少しずつ消えていった。
「……終わったのか?」
ガロンが低く言う。
セレスは息を整えながら、ゆっくり目を開けた。
ノアの手はまだ、自分の手を握っている。
小さな指が震えていた。
「たぶん、命令は切れた」
「子どもたちも落ち着いてきています!」
ミュゼの声には、安堵が混じっていた。
だが、セレスは黒い結晶から目を離せなかった。
砕けかけた結晶の奥で、最後の黒い光が瞬く。
そして。
誰もいない物置部屋に、男とも女ともつかない声が響いた。
『また一つ、白銀に近づいた』
空気が冷える。
イリスが即座に剣を向け、レイフィアがセレスとノアの前へ出た。
「どこにいる」
ガロンの声が低く唸る。
返事はない。
代わりに、砕けた結晶の中から細い黒い線が伸びた。
床板の隙間へ。
さらに、その下へ。
まるで、王都の地下深くへ続いているように。
『次の器は、地下で待っている』
声はそれだけを残し、消えた。
黒い結晶が完全に砕ける。
残されたのは、床へ刻まれた小さな印だった。
王都の地図にも見える線。
そして、北区の地下水路へ続くように伸びる、黒い道筋。
セレスはその印を見下ろした。
左手首の紋様は、まだ熱を残している。
「……今度は逃がさない」
誰に言うでもなく、セレスは呟いた。
子どもを道具にした。
ノアのような子を、まだどこかで作っている。
なら、見過ごせるはずがない。
「地下水路、だね」
レイフィアが小さく言った。
「ああ」
セレスは頷く。
「次は、こっちから行く」
第52話「黒い糸の先」をお読みいただき、ありがとうございます。
子どもたちの魔力暴走の裏には、やはり黒ローブたちの偽紋様がありました。
今回はセレスの力だけでなく、ノア自身が「道具じゃない」と言えるようになることを大事にした回です。
次回から、いよいよ王都の地下水路へ。
黒い命令の発信源と、「次の器」をめぐる探索が始まります。
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