第四十四話 名前を選ぶ日
名前を呼ばれることは、思っているよりずっと大切なのかもしれません。
番号ではなく、自分で選んだ名前を。
今回は、少しだけ穏やかな時間と、これから王都へ向かうための準備の回です。
黒ローブたちの襲撃から、三日が過ぎた。
ヴェルンハイムの治療院には、以前よりも衛兵と冒険者が出入りするようになっていた。
少女の部屋の前にも、常に誰かが立っている。
黒ローブ組織が、少女を簡単に諦めるとは思えなかった。
それでも。
窓際に置かれた椅子へ座る少女の表情は、最初に目を覚ました頃よりも、少しだけ柔らかくなっていた。
朝の光が、淡い灰銀の髪へ落ちている。
少女は窓の外を眺めながら、小さな紙を膝の上に置いていた。
そこには、たどたどしい文字がいくつも並んでいる。
ノア。
ルナ。
ユイ。
シエラ。
「……難しい」
少女は小さく呟いた。
「何が?」
部屋へ入ってきたミュゼが、両手に盆を持ちながら首を傾げる。
「名前」
少女は紙を見せた。
「昨日、名前は自分で決めていいって言われたから。でも、どうやって選べばいいか分からなくて」
「そっか」
ミュゼは盆をテーブルへ置いた。
今日の盆には、湯気の立つ薬草茶と、丸い焼き菓子が乗っている。
「じゃあ、一緒に考えようよ!」
「一緒に?」
「うん。でも、決めるのはあなた」
ミュゼは隣の椅子へ座った。
「わたしが名前を決めるときはね、お母さんとお父さんが、いっぱい考えたんだって。優しくて、笑顔が似合う子になりますようにって」
「……優しくて」
「うん。でも、どんな願いを込めるかは人それぞれだから」
ミュゼは少女の紙を覗き込む。
「あなたは、どんなふうになりたい?」
少女はすぐには答えなかった。
指先で、紙の端をそっと撫でる。
「……誰かが怖いときに」
小さな声だった。
「そばにいられる人になりたい」
ミュゼの顔が、ふわりとほころぶ。
「それなら、ぴったりの名前が見つかりそう」
そこへ、ノックの音がした。
「入るぞ」
ガロンが大きな紙袋を持って部屋へ入ってくる。
「治療師に頼まれた薬草と、少し食べられそうなものを買ってきた」
「ガロン、おつかいできるんだ」
ミュゼが楽しそうに言う。
「何だ、その言い方は」
「だって、お父さんみたい」
「……否定はしない」
ガロンは少しだけ困った顔をした。
紙袋から取り出したのは、柔らかいパンと果物、それから小さな木彫りだった。
白い鳥を模した、手のひらに収まる小さな飾り。
「これ、どうしたんですか?」
少女が尋ねる。
「店先にあった」
「買ったの?」
「ああ。部屋にいると退屈だろうと思ってな」
ガロンは少し視線を逸らした。
「気に入らなければ、別に使わなくていい」
少女は両手で木彫りの鳥を受け取った。
不器用な作りだった。
羽の形も少し左右で違う。
それでも、握ると温かい。
「……かわいい」
その一言に、ガロンの表情が少しだけ緩んだ。
「そうか」
「うん。ありがとうございます」
少女は木彫りを胸元へ抱いた。
胸の偽紋様がある場所へ近づけるのが、まだ少し怖かった。
だが、木彫りの鳥を抱いていると、そこに残る黒い線も前より気にならない。
「白い鳥」
少女が呟く。
「どこへでも飛んでいけそう」
「飛べるといいな」
ガロンが言った。
「行きたい場所へ、自分で行けるようにな」
少女は小さく頷いた。
次に訪れたのは、レイフィアだった。
彼女の手には、淡い藤色の布がある。
「これは?」
少女が尋ねると、レイフィアは少しだけ視線を逸らした。
「……髪を結ぶものよ」
布は細いリボンになっていた。
少女の髪色に合う、淡い藤色。
「ずっと髪が顔にかかっているでしょう。見えにくそうだったから」
「ありがとうございます」
「べ、別に。服の色も決まっていないのに、髪だけでも少し整えた方がいいと思っただけよ」
レイフィアは少女の後ろへ回る。
手つきは驚くほど丁寧だった。
淡い灰銀の髪を片側へ集め、ゆるく結んでいく。
鏡を持ってきたミュゼが、嬉しそうに見せた。
「見て見て! すごく似合ってる!」
少女は鏡の中の自分を見た。
髪が少し整っている。
前髪の隙間から、顔が見える。
けれど、それが自分だとはまだ不思議だった。
「……わたし、変じゃないですか」
「変なわけないでしょ」
レイフィアがすぐに言った。
少し強い口調だった。
「とても似合っているわ」
言ってから、レイフィアは自分でも驚いたように黙る。
ミュゼがにやにやと笑った。
「レイフィア、すごく優しい」
「普通のことを言っただけよ」
「でも、かわいいって思ったんでしょ?」
「言ってない」
「顔に出てるよ」
「出てない!」
少女は、そんな二人を見ていた。
しばらくして。
ふっと、小さく笑った。
「……楽しそう」
レイフィアは少しだけ目を見開く。
「そうね」
それから、柔らかく答えた。
「あなたも、笑っていいのよ」
午後になり、イリスとセレスも治療院へ戻ってきた。
二人はギルドで、王都へ向かうための書類や護衛依頼について確認していたらしい。
「出発は三日後になった」
イリスが言う。
「王都までの隊商に同行する。昇格試験の推薦者も同じ時期に向かうらしい」
「三日後」
少女が呟く。
その声には、わずかな不安が混じっていた。
セレスは窓際の椅子の隣に立つ。
「王都には、黒ローブの連中がいるかもしれない」
「……はい」
「怖いなら、ここに残る方法もある」
少女は驚いたようにセレスを見た。
「でも、俺たちは王都へ行く。試験もあるし、あいつらを止める必要もある」
セレスは少しだけ間を置いた。
「お前がどうしたいかは、お前が決めろ」
少女は手の中の木彫りの鳥を見つめた。
黒ローブの声が頭をよぎる。
戻れ。
零号。
回収対象。
胸元の偽紋様が、かすかに痛んだ。
それでも。
ミュゼがくれた焼き菓子の甘さ。
ガロンの大きな手。
レイフィアが結んでくれた髪。
イリスの真っ直ぐな目。
セレスの白銀の紋様。
それらを思い出すと、怖さの奥に、ほんの少しだけ前へ進みたい気持ちが生まれた。
「……行きたいです」
少女は顔を上げた。
「王都へ。怖いけど」
指先に力を込める。
「わたしと同じ人が、まだいるなら。何もできないかもしれないけど、知りたい」
イリスが頷いた。
「それでいい」
「無理はさせない」
ガロンが続ける。
「だが、自分で決めたなら、俺たちが守る」
「うん!」
ミュゼが笑う。
「一緒に行こう!」
少女は、戸惑いながらも小さく頷いた。
そのとき。
治療院の外から、子どもたちの笑い声が聞こえた。
窓の向こうを、一羽の白い鳥が横切っていく。
少女は、手の中の木彫りを見つめた。
白い鳥。
どこへでも飛んでいける。
怖くても、自分で行き先を選べる。
「……ノア」
誰もすぐには反応しなかった。
少女はもう一度、今度は少しだけはっきりと言う。
「ノアが、いいです」
「ノア?」
ミュゼが首を傾げる。
「はい」
少女は木彫りの鳥を胸に抱いた。
「白い鳥みたいに、いつか自分で飛べるようになりたいから」
セレスは、その名前を口にした。
「ノア」
少女の肩が、わずかに震える。
「……はい」
「似合ってる」
短い言葉だった。
けれど、ノアの瞳に涙が溢れた。
ミュゼがすぐに隣から抱きつく。
「ノア、よろしくね!」
「よ、よろしく……お願いします」
「もっと普通に呼んでいいよ!」
「え?」
「ミュゼって呼んで。ガロンも、レイフィアも、イリスも。セレスも」
ノアは五人を順番に見た。
それから、小さく息を吸う。
「……ミュゼ」
「うん!」
「ガロン」
「ああ」
「レイフィア」
「ええ」
「イリス」
「何だ」
「セレス」
「ああ」
ただ名前を呼んだだけだった。
けれどノアにとっては、初めて自分が誰かの中にいると確かめるような時間だった。
ノアは自分の胸元へ手を当てる。
そこにはまだ、不完全な偽紋様がある。
黒い線も消えてはいない。
けれど。
自分の名前を呼ばれた今だけは、それが少しだけ遠いものに思えた。
「わたしは、ノアです」
淡い灰銀の髪を、窓からの風が揺らす。
白い鳥のように飛ぶには、まだ遠い。
それでも。
少女は初めて、自分の足で前へ進むための名前を手に入れた。
王都への出発まで、あと三日。
セレスたちはそれぞれの準備を始める。
そしてノアもまた、守られるだけの少女ではなく、自分の意思で未来を選ぶ一人として、その旅へ加わることを決めた。
第四十四話を読んでいただき、ありがとうございます!
少女は、自分で選んだ名前「ノア」を手に入れました。
ガロンの木彫りの鳥、レイフィアの藤色のリボン、ミュゼのまっすぐな優しさ。
五人それぞれとの関わりを通して、ノアは少しずつ「ここにいていい」と思えるようになっています。
次回はいよいよ王都へ向かう準備と、銀ランク昇格試験へつながる出発です。
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