第四十三話 ここにいていい
無事に帰ってきた冒険者には、ごほうびが必要です。
特にミュゼにとっては、プリンが必要です。
けれど、少しだけ笑えるようになった少女のもとへ、黒ローブたちの手が近づいていました。
治療院を出た頃には、昼の鐘が鳴っていた。
昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、ミュゼの足取りだけは妙に軽い。
「セレス、早く早く!」
「どこへ行くんだよ」
「決まってるでしょ?」
ミュゼは振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「プリンのお店!」
「元気だな」
「これは元気とは違うの。使命感だよ」
ガロンが呆れたように息を吐く。
「甘いものを食べるのが使命なら、世の中は平和だな」
「平和がいちばんだよ!」
ミュゼは迷いなく言い切った。
その後ろを歩く少女は、少し戸惑ったように周囲を見ていた。
治療院の外へ出るのは、目を覚ましてから初めてだった。
人々の話し声。
焼きたてのパンの匂い。
店先に並ぶ色鮮やかな果物。
少女はどれも珍しいものを見るように、静かに目を動かしていた。
「疲れたら言え」
ガロンが言う。
少女は慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫」
「無理をするな。歩けないなら担ぐ」
「……担がなくて、大丈夫です」
少しだけ困った顔をした少女に、レイフィアが口元を緩めた。
「ガロンは心配性なのよ」
「心配くらいするだろ」
「そういうところが、です」
ガロンは言い返そうとして、結局は何も言わなかった。
その様子を見た少女が、ほんの少しだけ笑う。
小さな笑みだった。
けれどセレスは、それを見逃さなかった。
「笑ったな」
「……笑ってない」
「今、笑ったよね?」
ミュゼがすぐに顔を近づける。
「笑ってないです」
「笑ったよ!」
「笑ってません」
少女の声はまだ弱々しい。
だが、必死に否定する姿がおかしかったのか、ミュゼが楽しそうに笑った。
「うんうん。いいことだよ」
「何がですか」
「笑えるようになったこと!」
少女は返事に困ったように目を伏せる。
それでも、少しだけ頬が緩んでいた。
通りの奥にある小さな菓子店へ入ると、甘い香りが一気に鼻をくすぐった。
棚には焼き菓子や果実のタルトが並び、ガラスケースの中には、琥珀色のカラメルがかかったプリンが並んでいる。
「これ!」
ミュゼは迷わず指を差した。
「これを五……いえ、六つください!」
「自分の分を二つにしなかったな」
セレスが言うと、ミュゼは少しだけ考えた。
「……じゃあ、七つ」
「増えた」
「セレスも食べるでしょ?」
「俺は別に」
「食べるよね?」
笑顔で言われ、セレスは小さく息を吐いた。
「……食べる」
「よし!」
店の奥にある小さな席で、六人は丸い卓を囲んだ。
少女の前にも、小さなプリンが置かれる。
白い皿の上で、金色のカラメルが光っていた。
少女はそれをじっと見つめたまま、手を伸ばさない。
「食べないの?」
ミュゼが尋ねる。
「……わたしが、食べてもいいんですか」
ミュゼの表情が少しだけ変わった。
「どうして?」
「こういうのは……ちゃんとできた人が食べるものだから」
少女は俯いた。
「わたしは、できなかったから」
一瞬、卓の空気が静かになった。
ガロンの手が、わずかに拳を握る。
イリスの瞳には、冷たい怒りが浮かんでいた。
だが最初に声を出したのは、ミュゼだった。
「それ、誰が言ったの?」
いつもの明るい声だった。
けれど、そこには怒りが混じっていた。
「黒い人たち?」
少女は小さく頷く。
「できない子は、食べなくていいって」
「じゃあ、その人たちが間違ってる」
ミュゼは迷いなく言った。
「おいしいものはね、頑張った人だけのものじゃないよ」
少女が顔を上げる。
「悲しい人も、怖い人も、疲れた人も。みんな食べていいの」
ミュゼは自分のプリンを持ち上げた。
「それに、今日はみんなで無事に帰ってきたお祝いだから。あなたも一緒だよ」
「……一緒」
「うん。一緒」
ミュゼの笑顔に、少女はゆっくりとスプーンを手に取った。
震える手で、プリンを少しだけすくう。
口へ運ぶ。
甘さが広がった瞬間、少女の目がわずかに見開かれた。
「……甘い」
「おいしい?」
ミュゼが身を乗り出す。
少女はもう一口食べた。
今度は少しだけ早く。
「……おいしいです」
「でしょ!」
ミュゼが両手を上げる。
「プリンはすごいんだよ!」
「そこまで言うことか?」
セレスが言うと、ミュゼは真剣な顔で頷いた。
「言うことだよ」
レイフィアが小さく笑い、イリスは呆れながらも、自分のプリンを一口食べた。
ガロンは何も言わず、少女が二口目を食べる様子を見ていた。
少女がプリンを食べ終えたときだった。
胸元が、ずきりと痛んだ。
「……っ」
スプーンが皿へ落ちる。
少女の胸元から、黒い光が漏れ出した。
「何だ?」
ガロンが立ち上がる。
セレスの左手首にある白銀の紋様も、熱を持った。
窓の外。
通りの向こうに、黒いローブを着た人影が立っている。
顔は深いフードに隠れて見えない。
だが、その人物の胸元には、歪んだ偽紋様が浮かんでいた。
「見つけた」
低い声が、店内まで届く。
「試作零号。回収対象だ」
少女の顔から、一気に血の気が引いた。
「……いや」
黒ローブの足元から、黒い線が地面を這う。
線は窓を越え、店の床を走り、少女の足首へ絡みつこうとした。
「伏せろ!」
ガロンが卓を押し倒す。
セレスはすぐに少女の前へ出て、白銀の紋様を輝かせた。
白い光と黒い線がぶつかり合い、店内に衝撃が走る。
窓ガラスが割れ、客たちの悲鳴が響いた。
「ガロン、外へ!」
「分かってる!」
ガロンが大剣を抜き、店の出口へ向かう。
「ミュゼ、少女を頼む!」
「うん!」
ミュゼは少女の手を強く握った。
「大丈夫。絶対に離さないから!」
レイフィアは細剣を抜き、窓の外へ跳び出す。
その背後をイリスが追った。
「市街地で好き勝手にさせるな!」
「ああ!」
黒ローブは一人ではなかった。
屋根の上。
路地の奥。
通りの両側から、歪んだ偽紋様を刻んだ者たちが姿を現す。
その誰もが、虚ろな目をしていた。
「……あれも」
少女の声が震える。
「あの人たちも、わたしと同じ」
「違う」
セレスは黒い線を押し返しながら言った。
「お前たちは、同じじゃない」
「でも、あの人たちも、戻れないって……」
「戻れる」
セレスは断言した。
「戻れるようにする」
白銀の光が、少女へ絡みつこうとした黒い線を弾き飛ばす。
だが、黒ローブの一人が口元を歪めた。
「本物は愚かだ」
偽紋様が、不気味な光を放つ。
「未完成品へ情をかける。その甘さが、お前を王都へ導く」
「王都?」
イリスの剣が黒ローブの肩を裂いた。
「何を知っている」
「もう遅い」
黒ローブは血を流しながら笑う。
「王都では、次の器が待っている」
セレスの背筋を冷たいものが走った。
黒ローブは最後に、少女へ手を伸ばす。
「零号。戻れ」
少女の身体が固まった。
胸元の偽紋様が、激しく脈打つ。
黒い線が、少女の腕を引こうとする。
「……わたし」
少女は俯いた。
指先が震えている。
「わたしが、戻れば」
「戻るな」
セレスが言う。
「でも、わたしが戻ったら……みんな、巻き込まれない」
「戻るな」
今度は、ガロンが低く言った。
「お前は物じゃない。あいつらの言うことを聞く必要はない」
「でも……」
「いいから、こっちを見て」
ミュゼが少女の両手を包み込む。
泣きそうな顔だった。
「あなたが戻りたくないなら、戻らなくていい」
少女の瞳から、涙が溢れた。
「わたしは……」
黒い線が、さらに強く少女を引く。
怖い。
また暗い部屋へ連れていかれる。
番号で呼ばれる。
失敗作だと言われる。
何も食べさせてもらえない。
誰にも名前を呼ばれない。
けれど。
目の前には、プリンの空いた皿があった。
甘かった。
おいしかった。
ミュゼが笑っていた。
ガロンが心配していた。
レイフィアは、何も言わずに横にいてくれた。
イリスは、怖くないように前へ立ってくれた。
そしてセレスは、自分を偽物ではないと言った。
「……戻りたくない」
小さな声だった。
だが、確かに少女自身の声だった。
「わたし、ここにいたい」
その瞬間。
セレスの白銀の紋様が強く輝いた。
少女の胸元から伸びていた黒い線が、白い光に焼かれるようにほどけていく。
「零号が命令を拒否しただと?」
黒ローブの声に、初めて動揺が混じった。
「零号じゃない」
セレスは少女の前に立ったまま言う。
「こいつは、お前らの道具じゃない」
ガロンの大剣が、黒ローブの足元を砕く。
イリスの剣が、偽紋様の光を断ち切る。
レイフィアの細剣が、術式を繋ぐ黒い糸を正確に貫いた。
ミュゼの魔法が、少女の胸元を包む黒い揺らぎを抑え込む。
五人の力が重なる。
黒ローブたちは、次々に地面へ膝をついた。
「覚えていろ……白銀の本物」
最後の一人が、黒い煙へ溶けながら呟く。
「王都で、お前たちの答えを見せてもらう」
黒い煙が消える。
通りに残ったのは、壊れた窓と、静かな風だけだった。
少女はその場に座り込んでいた。
ミュゼがすぐに抱きしめる。
「大丈夫?」
「……うん」
少女は涙を拭った。
「怖かった。でも」
セレスを見上げる。
「戻りたくないって、言えた」
「ああ」
セレスは頷く。
「よく言った」
その言葉に、少女は少しだけ笑った。
黒ローブたちは王都を口にした。
次の器。
さらに多くの偽紋様。
銀ランク昇格試験への道は、もう単なる試験ではない。
セレスたちは、少女を狙う者たちを止めるためにも、王都へ向かう。
けれど今だけは。
少女が初めて自分で選んだ小さな願いを、五人は誰も否定しなかった。
第四十三話を読んでいただき、ありがとうございます!
ついにミュゼ念願のプリンが登場しました。
甘いものは、頑張れた人だけのごほうびではなく、怖かった人も、疲れた人も、食べていいものです。
そして少女は、黒ローブたちの命令に対して初めて「戻りたくない」と言えました。
まだ名前も、これからの居場所も決まっていませんが、小さな一歩を踏み出しています。
次回は、少女が自分の名前を選ぶ回です。
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