第四十二話 白い傷を抱く少女
「王都へ行く前に、まずはプリンです!」
ミュゼの大事な予定は、どうやら銀ランク昇格試験より優先らしいです。
けれど、治療院で眠る少女の偽紋様が、セレスたちを次の事件へ引き寄せます。
翌朝。
ヴェルンハイムの治療院には、早い時間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
けれど、一番奥の個室だけは、どこか空気が重い。
ベッドの上で眠る少女は、昨夜から一度も目を覚ましていなかった。
年は十二、三歳ほど。
淡い灰色の髪は長く伸び、手入れされることなく毛布の上へ広がっている。
痩せた手は胸元で固く握られ、その隙間から、不完全な紋様がわずかに覗いていた。
黒い線の中に、白銀の光が混じる紋様。
それを見るたびに、セレスの左手首が熱を持つ。
「容体は?」
セレスが治療師へ尋ねる。
「命に別状はありません。ただ……身体の傷はほとんど治っているのに、意識だけが戻らないのです」
年配の治療師は、少女の胸元を見ながら続けた。
「魔力の流れも不自然です。何かが身体の中で、ずっと引っかかっているような」
「偽紋様が原因か」
ガロンの低い声に、治療師はゆっくり頷いた。
「おそらくは。ですが、これは通常の呪いとも違います。無理に消そうとすれば、少女自身の命を傷つける可能性があります」
「じゃあ、待つしかないの?」
ミュゼの表情が曇った。
「待つだけじゃない」
セレスはベッドの脇へ近づいた。
眠る少女の顔は、苦しそうだった。
眉間には小さなしわが寄り、時々、呼吸が浅くなる。
怖い夢でも見ているのかもしれない。
あるいは、夢の中でもまだ誰かに追われているのか。
「俺の紋様と共鳴してるなら、何かできるかもしれない」
「無茶はするな」
イリスがすぐに言った。
「お前の紋様は、まだ分からないことが多すぎる」
「分かってる」
セレスは左手首の銀の腕輪に触れた。
「でも、このまま見てるだけも嫌だ」
腕輪を外す。
白銀の紋様が朝日に照らされ、淡く輝いた。
セレスが少女の手へそっと触れると、紋様から静かな熱が伝わった。
少女の胸元にある偽紋様が、かすかに反応する。
黒い線が震えた。
「セレス!」
ミュゼの声と同時に、部屋の空気が揺らいだ。
目の前の景色が、白く滲む。
治療院の壁も、ベッドも、仲間たちの姿も、遠ざかっていく。
次の瞬間。
セレスは、真っ暗な場所に立っていた。
「……ここは」
足元に地面はない。
空もない。
何もない闇の中に、ただ一人だけ、小さな少女が膝を抱えていた。
現実の少女よりも、さらに幼く見える。
灰色の髪を震わせ、顔を隠している。
「おい」
セレスが声をかけると、少女の肩が跳ねた。
「来るな!」
鋭い声だった。
けれど、その中には怒りよりも恐怖があった。
「大丈夫だ。何もしない」
「嘘」
少女は顔を上げなかった。
「みんな、そう言った」
闇の奥で、黒い線が蠢く。
ぬるりとした影が、少女の背後から伸びていた。
『役に立てば、生かしてやる』
『お前なら、白銀の器になれる』
『失敗しても問題ない。次を作ればいい』
誰かの声が、闇の中で重なる。
少女は耳を塞ぎ、身体を縮めた。
「やめて……」
セレスの手首にある紋様が、痛いほど熱くなった。
白銀の光が、闇の中に細い線を描く。
その光を見て、少女がゆっくり顔を上げた。
赤く腫れた目。
頬には涙の跡が残っていた。
「……白い、人」
昨夜、現実で呟いた言葉と同じだった。
「俺はセレス」
セレスはしゃがみ込み、少女と目線を合わせる。
「お前は?」
少女は唇を震わせた。
「……わからない」
「名前を忘れたのか」
「違う。呼ばれなかった」
セレスは言葉を失った。
少女は、震える声で続ける。
「番号で呼ばれてた。失敗作って。偽物って」
闇の奥から、黒い線が少女の腕に絡みついた。
少女は小さく悲鳴を上げる。
「やめろ」
セレスが手を伸ばす。
白銀の紋様が光を強め、黒い線へ触れた。
瞬間、身体の奥へ冷たいものが流れ込んできた。
怒り。
絶望。
諦め。
誰かに見つけてほしいという、声にならない願い。
セレスの胸が締めつけられた。
「セレス!」
遠くでミュゼの声がする。
だが、セレスは少女から目を離さなかった。
「俺も、無色って呼ばれた」
少女が驚いたように顔を上げる。
「測れないから、何もないって言われた」
セレスは左手首の紋様を見た。
「でも、違った。俺が何者かは、他人が勝手に決めるものじゃない」
黒い線がさらに強く、少女へ絡みつこうとする。
セレスは手を伸ばしたまま、言った。
「お前も同じだ」
「……わたしは、偽物」
「違う」
「でも、紋様が……」
「それがお前の全部じゃない」
セレスの声は、自分でも驚くほどまっすぐだった。
「名前がなくても、番号で呼ばれていても、お前はここにいる」
少女の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「……こわい」
「ああ」
セレスは頷いた。
「怖いよな」
「また、いらないって言われる」
「言わせない」
その言葉に、闇が揺れた。
黒い線が大きく膨れ上がり、少女を飲み込もうとする。
セレスは立ち上がった。
「俺がいる」
白銀の紋様が、かつてないほど強く輝く。
「仲間もいる。だから、一人じゃない」
光が闇を押し返す。
黒い線は苦しむように歪み、少女の胸元から少しずつ引き剥がされていった。
完全には消えない。
けれど、少女を縛っていた黒い鎖が、一本ずつ砕けていく。
最後の一本が砕けた瞬間。
闇の奥から、冷たい声が響いた。
『白銀の紋様』
セレスの身体が固まる。
『また一つ、こちらの器を壊したか』
「誰だ」
『お前は、救っているつもりか』
黒い線が、闇の中で笑うように揺れた。
『それは未完成だ。白銀に届かなかった、ただの失敗作』
「失敗作じゃない」
セレスは即答した。
『ならば、証明してみろ』
声は薄れていく。
『王都で待つ。白銀の本物よ』
闇が崩れた。
白い光が、セレスと少女を包み込む。
次に目を開けたとき。
セレスは治療院のベッド脇に立っていた。
「セレス!」
ミュゼが、すぐにセレスの腕へ飛びついた。
「急に動かなくなるから、びっくりしたよ!」
「悪い」
「本当にもう。心配させないでよね」
怒っているのに、目は少し潤んでいた。
セレスはそっとミュゼの頭を撫でる。
「大丈夫。戻ってきた」
「……うん」
ミュゼは小さく頷いた。
そのとき。
ベッドの上の少女が、ゆっくりと目を開けた。
淡い灰色の瞳が、ぼんやりと天井を見つめる。
「ここは……」
「治療院だ」
セレスが言うと、少女の視線がこちらへ向く。
そして、左手首の白銀の紋様を見つけた。
「白い、人」
「ああ」
少女はしばらくセレスを見つめた。
それから、震える唇で尋ねる。
「……わたし、いてもいいの?」
部屋の空気が止まったように感じた。
セレスは迷わなかった。
「いい」
少女の目から、また涙が溢れる。
「名前、ないの」
「じゃあ、これから決めればいい」
「決めて、いいの?」
「自分で決めていい」
少女は泣きながら、小さく笑った。
その笑顔はまだ弱々しかった。
けれど確かに、昨日までの苦しそうな表情とは違っていた。
「私はミュゼ!」
ミュゼが明るく名乗る。
「こっちはガロン。こっちがレイフィア。それで、こっちがイリス!」
「……よろしく」
ガロンが不器用に手を上げる。
レイフィアはやわらかく微笑み、イリスは真っ直ぐに頷いた。
「名前を決めるまで、無理に話さなくていい。まずは休め」
「うん」
少女は毛布を握りしめる。
そして、セレスへだけ聞こえるくらい小さな声で言った。
「……王都」
「え?」
「黒い人が、言ってた」
少女の胸元に残る偽紋様が、かすかに暗く揺れる。
「王都に、もっとたくさんいるって」
セレスたちは顔を見合わせた。
黒ローブの上位存在。
王都で待つという声。
そして、白銀の紋様を模倣して作られた少女。
銀ランク昇格試験への推薦状は、ただの次の目標ではなくなった。
王都には、紋様をめぐる事件の中心がある。
セレスは少女の手を見た。
「大丈夫だ」
少女が不安そうに目を上げる。
「王都へ行く。あそこにいるやつらを止める」
「……わたしも?」
「お前が望むなら」
少女は少し迷った。
けれど、最後には小さく頷いた。
「……行きたい」
その瞳には、まだ恐怖がある。
それでも。
誰かに決められた場所ではなく、自分で選んだ一歩を踏み出そうとしていた。
セレスの白銀の紋様が、静かに温かく光った。
第四十二話を読んでいただき、ありがとうございます!
白銀の紋様に共鳴する、身元不明の少女が目を覚ましました。
黒ローブたちから「偽物」「失敗作」と呼ばれてきた彼女ですが、ここから自分の名前と居場所を手に入れていくことになります。
そして、敵が待つ王都。
銀ランク昇格試験と偽紋様の事件が、少しずつ一つにつながり始めました。
なお、ミュゼのプリンは今回もお預けです。たぶん次こそ食べます。
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