第三十五話 無色の意味
「無色」は、何も持たないという意味でした。
少なくとも、セレスはそう思っていました。
けれど、何にも染まっていないことは。
もしかすると、何かになれる余白なのかもしれません。
赤い光が、暗い通路の奥で揺れていた。
黒い甲殻に覆われた人影が、三体。
腕は刃のように変形し、首元には何重にも絡み合った偽紋様が刻まれている。
その姿を見た瞬間、レイフィアの呼吸が浅くなった。
「……村にいた」
細剣を握る手が、わずかに震える。
「偽紋様に耐えられなかった人たちを、黒ローブはこうして……戦える形に変えた」
セレスは、彼女の横へ立った。
「止められるか」
「分からない」
レイフィアは正直に答えた。
「でも、止める」
怪物の一体が、床を蹴った。
石を砕くほどの勢い。
刃の腕が、セレスの首を狙って振るわれる。
セレスは剣で受けた。
金属のような硬い音が響く。
「っ……!」
腕が痺れる。
強い。
さっきの強化兵より速く、重い。
セレスは力を逃がしながら後ろへ下がった。
「セレス、左!」
レイフィアの声。
二体目が横から迫る。
細剣が閃き、怪物の肘を正確に突いた。
だが刃は甲殻に弾かれる。
「硬い……!」
レイフィアが距離を取る。
三体目が、彼女へ腕を振り下ろした。
レイフィアは避ける。
石床が砕ける。
破片が頬をかすめ、細い血が流れた。
「レイフィア!」
「大丈夫!」
彼女は返事をしながら、怪物の背後へ回る。
細剣を首元の紋様へ突き立てようとした。
だが、怪物が振り向く。
赤い光が目の奥で弾けた。
レイフィアの手首に残っていた黒赤い線が、強く反応する。
「っ……!」
視界が揺れる。
目の前の怪物が、一瞬だけ別の姿に見えた。
村の広場。
倒れた人々。
泣いている子供。
自分を呼ぶ声。
『レイフィア、助けて』
「……っ」
足が止まる。
怪物の刃が、レイフィアへ迫った。
「危ない!」
セレスが割り込んだ。
剣を振るい、刃の腕を受け流す。
そのまま肩をぶつけて、レイフィアを後ろへ押し出した。
「ごめん……!」
「謝るのは後でいい」
セレスは怪物の攻撃を避けながら言う。
「今は、生きて帰る」
「でも……あの人たちを」
「助ける」
セレスは答えた。
「だから、俺の後ろにいるな」
レイフィアが目を見開く。
「横にいろ」
短い言葉だった。
けれど、レイフィアの顔から、少しだけ迷いが消えた。
「……分かった」
二人は同時に踏み込む。
セレスが正面から一体を引きつける。
レイフィアはその横を抜け、二体目の足元へ細剣を滑らせた。
甲殻の隙間。
わずかな継ぎ目。
そこへ正確に突きを入れる。
「そこなら通る!」
怪物の足が止まる。
セレスが剣を返し、首元の紋様を斬りつけた。
黒赤い光が弾ける。
だが。
怪物は止まらなかった。
傷ついた紋様が、逆に激しく脈打つ。
「やっぱり、壊すだけじゃ駄目か」
セレスは歯を食いしばる。
怪物の腕が膨れ上がる。
赤い光が、身体の内側から溢れ出した。
「離れて!」
レイフィアが叫ぶ。
怪物の甲殻が割れ、黒い霧が噴き出す。
その中に。
人の顔が見えた。
苦しそうに、何かを叫んでいる。
「たす……け……」
セレスの左手首の紋様が、熱を持つ。
白銀の光が、勝手に反応した。
「レイフィア」
セレスは言った。
「俺が紋様を止める。隙を作れるか」
「一人でやるつもり?」
「二人でやる」
レイフィアは、わずかに笑った。
「今度は、そう言うのね」
彼女は細剣を構え直す。
「任せて」
怪物が咆哮を上げる。
黒い霧をまといながら、突進してくる。
レイフィアが前へ出た。
刃の腕を紙一重で避ける。
一歩。
二歩。
三歩。
無駄のない足運びで、怪物の周囲を回る。
刃がレイフィアを追う。
だが、届かない。
「こっちよ」
レイフィアの声は、静かだった。
「私はここにいる」
怪物が怒ったように腕を振るう。
レイフィアは身を沈め、細剣を突き出した。
狙いは首元ではない。
怪物の足首。
甲殻の継ぎ目を貫く。
片足が崩れる。
怪物が大きく体勢を崩した。
「セレス!」
「ああ!」
セレスが飛び込む。
左手を、怪物の胸元へ押し当てた。
白銀の光が広がる。
黒赤い偽紋様が、激しく抵抗した。
さっきの強化兵よりも、深い。
中にいる人の意識が、ほとんど沈んでいる。
流れ込んできたのは。
誰かを守りたかった願いではなかった。
ただ。
痛い。
苦しい。
怖い。
もう終わらせてほしい。
そんな叫びだった。
「……もう、大丈夫だ」
セレスは光を強める。
「戻れ」
だが、白銀の光だけでは届かない。
黒い霧が、セレスの腕に絡みつく。
視界が暗くなる。
「セレス!」
レイフィアの声。
次の瞬間。
彼女の手が、セレスの手首を掴んだ。
淡い白銀の線が、二人の間に伸びる。
昨日までなら。
レイフィアは、偽紋様へ近づくことさえ怖かったはずだ。
それでも。
「私も、ここにいる」
レイフィアの声が震えている。
「あなたを一人にはしない」
その言葉と同時に。
レイフィアの細剣から、細い光が流れた。
鋭く。
けれど、壊さない光。
黒赤い紋様の絡まりを、一本ずつほどいていく。
セレスの白銀が、暴走する力を受け止める。
レイフィアの光が、その奥に沈んだ人の意識へ届く。
黒い霧が薄くなる。
「……ありがとう」
かすかな声がした。
怪物の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
黒い甲殻が砕ける。
その中から、傷だらけの男が現れた。
呼吸は浅い。
けれど、生きていた。
「一人、戻せた」
レイフィアが呟く。
目元には涙が浮かんでいた。
「うん」
セレスは頷いた。
「まだ二人いる」
残った二体が、同時に動いた。
だが、さっきまでのような恐怖はなかった。
レイフィアが前へ出る。
セレスが横へ並ぶ。
怪物たちの攻撃を避け、受け流し、少しずつ動きを止める。
一体はレイフィアが足を崩し。
一体はセレスが剣で攻撃を逸らす。
そして二人で偽紋様へ触れた。
白銀の光。
細剣のような鋭い光。
暴走の奥に沈んでいた二人の意識を、一人ずつ引き上げる。
しばらくして。
通路には、三人の傷ついた人間が横たわっていた。
黒い甲殻は消え。
偽紋様も、薄い痕だけを残している。
レイフィアは、三人を見下ろした。
「……全部は、助けられなかった」
小さく言う。
「故郷の人たちは、戻らなかった」
「戻らないものもある」
セレスは答えた。
レイフィアが顔を上げる。
「でも、今いる人は助けられる」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「ええ」
そのとき。
分断されていた石壁の向こうから、大きな衝撃音が響いた。
続いて、ガロンの声。
「セレス! レイフィア! 聞こえるか!」
「聞こえる!」
セレスが叫び返す。
「こっちも無事だ!」
「よし! 石壁を壊す!」
数回の轟音。
石壁がひび割れ、最後に大剣の一撃で崩れ落ちた。
土煙の向こうから、ガロン、ミュゼ、イリスが現れる。
「怪我は?」
ミュゼが駆け寄る。
「大丈夫」
レイフィアが答える。
ただ、頬の傷と手首の黒赤い痕を見て、ミュゼの顔が曇った。
「全然大丈夫じゃないよ」
「大丈夫よ。動ける」
「治療する」
ミュゼは有無を言わせず、杖を掲げた。
柔らかな光がレイフィアを包む。
レイフィアは少し困ったように笑った。
「……ありがとう」
「うん」
ミュゼは微笑んだ。
「戻ってきてくれて、よかった」
イリスは、倒れている三人を確認する。
「助けたのね」
「ああ」
セレスが答える。
「レイフィアが止めた」
「二人で、よ」
レイフィアは訂正した。
イリスは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「そう。なら、いい顔をしているわけね」
「してない」
「してる」
ガロンが横から言う。
「俺にもそう見える」
「ガロンまで」
レイフィアは呆れたように息を吐いた。
けれど、その声は少しだけ軽かった。
「通路の先に、広い部屋があった」
イリスが表情を引き締める。
「石壁の向こうで、白銀の光が見えたわ。たぶん、銀仮面が向かった場所に繋がっている」
「行こう」
セレスは通路の奥を見る。
黒赤い光は、まだ遺跡のさらに深くから流れている。
そして白銀の紋様も。
それに引かれるように、手首が熱を持っていた。
五人は、救出した三人を安全な場所へ移した。
ミュゼが簡易的な回復術を残し、ガロンが目印になるよう石柱へ傷をつける。
その後。
再び、五人で遺跡の奥へ進んだ。
通路の先は、ゆっくりと下り坂になっていた。
壁に刻まれた紋様は、これまでより古い。
白銀の線だけで描かれている。
黒赤い線は、まだ侵食しきれていない。
「ここから先は、黒ローブの施設よりも古い場所かもしれない」
イリスが壁に触れる。
「原初の紋様核に近づいている」
やがて。
通路の先に、大きな扉が見えた。
石造りの扉。
中央には、何も色のついていない紋様が刻まれている。
白でもない。
黒でもない。
ただ、輪郭だけが存在する模様。
セレスが近づくと。
左手首の白銀の紋様が光った。
扉の紋様が、それに応えるように淡く輝く。
「無色……?」
ミュゼが呟く。
扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうには。
巨大な空間が広がっていた。
天井の見えないほど広い部屋。
中央には、白い光を放つ巨大な結晶が浮かんでいる。
結晶からは無数の白銀の線が伸び、壁や床、天井へ繋がっていた。
その周囲を、黒赤い鎖が何重にも絡みついている。
そして。
結晶の前に、銀仮面の男が立っていた。
「ようやく来たか」
男は、ゆっくりと振り返る。
「無色の少女。いや――本来、どの色にも属さぬ器よ」
セレスの手首が、これまでにないほど強く熱を持った。
白い結晶が。
まるで彼女を待っていたかのように、脈打っていた。
第三十五話を読んでいただき、ありがとうございます!
レイフィアは、過去を消せたわけではありません。
それでも、逃げずに立ち、目の前の人を救うことができました。
そしてセレスたちはついに、原初の紋様核らしき場所へ到達します。
次回、銀仮面がセレスの紋様を狙う本当の理由と、無色の意味が明かされます。
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