第二十五話 夜の倉庫街
夜の倉庫街へ、こっそり潜入。
本来なら、静かに、目立たず、慎重に動く場面です。
……ミュゼが「忍び込むなら黒い服のほうがいいかな?」と言い出すまでは。
夜のヴェルンハイムは、昼間とはまるで別の顔をしていた。
店の明かりが消えた通りには、人の気配がほとんどない。
遠くで鳴る鐘の音と、夜風に揺れる看板の音だけが静かな町へ響いていた。
セレスたちは、東側にある倉庫街の入口で足を止める。
古い石造りの倉庫が並ぶ一帯は、昼でも人通りが少ない。
夜になればなおさらだ。
月明かりは雲に隠れ、細い路地の奥はほとんど闇に沈んでいる。
「……本当に、入るんだね」
ミュゼが小さな声で言った。
いつもの明るさを抑えた声。
けれど、握った杖には力が入っている。
「怖いなら、無理をする必要はない」
セレスが言うと、ミュゼは首を横に振った。
「怖いけど、行くよ」
「私も同じよ」
イリスが周囲を見渡しながら言った。
腰には剣を下げ、外套の留め具を確かめている。
「黒ローブたちがここにいるなら、放っておくほうが危ないわ」
「その通りだ」
ガロンは大剣を背負ったまま、倉庫街の奥を睨んでいた。
「ただし、今回は調査だ。敵を見つけても、勢いで飛び込むなよ」
「誰に言っているんですか?」
イリスが横目で見る。
「……全員だ」
「特にガロン?」
ミュゼが言う。
「なんで俺なんだよ」
「大剣で壁ごと壊して入れそうだから」
「そんなことしねえよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
セレスが言うと、ガロンは少しだけ顔をしかめた。
そのやり取りを聞いていたレイフィアは、小さく息を吐く。
「少しは緊張感を持ちなさいよ」
彼女は普段よりも動きやすい黒い外套を羽織り、腰の細剣を静かに抜いていた。
「ここは昔から、荷運びの連中や盗賊崩れが使う場所だったの。表通りだけ見ていても意味がないわ」
「何か知っているのか?」
セレスが聞く。
「昔、少しだけ通ったことがあるだけよ」
「探検したんだよね?」
ミュゼがすぐに反応する。
「探検じゃない」
レイフィアは即答した。
「……子どものころ、近道を探していただけ」
「それを探検って言うんじゃない?」
「言わないわ」
「言うと思う」
セレスが淡々と返すと、レイフィアは一瞬だけ黙った。
「……あんたまで言うの」
けれど、怒っているようには見えなかった。
レイフィアは倉庫街の奥へ歩き出す。
「こっち。表の道を進むより、裏の排水路沿いを使ったほうが見つかりにくい」
細い路地を抜けると、石壁に挟まれた低い通路があった。
足元には浅い排水路が流れている。
昼間ならただの汚れた水路だろう。
だが夜の闇の中では、どこか地下水路を思わせる不気味さがあった。
「足元に気をつけて」
レイフィアが言う。
「古い石が多い。踏み外したら音がするわ」
「分かった」
ミュゼが頷く。
五人は足音を抑えながら、暗い通路を進んだ。
しばらく歩くと、前方にかすかな明かりが見えた。
崩れかけた倉庫の壁の隙間から、橙色の灯りが漏れている。
レイフィアが手を上げる。
全員が足を止めた。
「見張りがいる」
小さく指された先。
倉庫の裏口近くに、黒いローブを着た男が二人立っていた。
片方は短剣を腰に下げ、もう片方は何かの帳簿を見ている。
「荷はまだか」
「もうすぐ来る。地下の連中が急かしている」
「昨日の失敗で、材料が足りないらしいな」
「実験体が一つ潰れただけだ。代わりはいくらでもいる」
ミュゼが息を呑む。
ガロンの眉が険しくなった。
セレスも、左手首の腕輪をそっと押さえる。
偽紋様。
やはり、ここで作られている。
「ここが間違いないみたいね」
イリスが低く言う。
「どうする?」
「中を見たい」
セレスが答えた。
「まず、何人いるか。捕まっている人がいるか。確かめる」
「正面は無理ね」
レイフィアは倉庫の壁へ視線を向けた。
「裏に小さな窓がある。あそこなら中を見られるかもしれない」
「行けるか?」
「行く」
セレスが言うと、レイフィアは少しだけ眉を寄せた。
「あなたが?」
「一番軽い」
「それなら私のほうが慣れてるわ」
「二人で行けばいい」
イリスが言った。
「セレスとレイフィアなら、見つかっても逃げやすい」
「見つからない前提で話して」
レイフィアは呆れたように言う。
だが、反対はしなかった。
ガロンとミュゼ、イリスは通路の陰に残る。
セレスとレイフィアは壁際を進み、崩れた木箱の影へ身を潜めた。
見張りの視線が外れた瞬間。
二人は音もなく、倉庫の横壁へ近づく。
そこには、確かに小さな窓があった。
割れた板で半分ほど塞がれている。
レイフィアが細剣の先で板を少しだけずらす。
中から、鼻を刺すような薬品の臭いが流れてきた。
セレスは窓の隙間から中を覗く。
広い倉庫の中には、大きな木箱が積まれていた。
けれど、運び込まれているのは食料や布ではない。
黒い液体の入った瓶。
赤い鉱石の欠片。
地下水路で見たものと似た、粘ついた素材。
そして。
倉庫の中央には、鉄格子で囲まれた区画があった。
中には、数人の男女が座り込んでいる。
皆、手首に縄をかけられていた。
「……人がいる」
セレスが小さく言う。
レイフィアの顔が硬くなる。
「やっぱり」
鉄格子のそばには、黒ローブの男が三人いた。
そのうちの一人が、手にした紙を読み上げている。
「次の被験者は二名。適合を確認後、紋様を刻む」
「嫌だ……」
鉄格子の中から、若い男の声が聞こえた。
「俺たちは、金を稼げる仕事だって聞いただけだ!」
「そうだ。最初は、ただの荷運びだと言われた!」
黒ローブの男は、興味なさそうに紙を閉じた。
「安心しろ。仕事をした分だけ、力を与える」
「そんなもの、いらない!」
「だが、お前たちには他に何がある?」
冷たい声だった。
「借金。病気の家族。働けない身体。誰にも必要とされない人生」
鉄格子の中の人々が、言葉を失う。
「力があれば変えられる。そう思ったから、ここへ来たんだろう?」
黒ローブの男が、薄く笑った。
「ならば役に立て。お前たちの失敗も、いずれ本物へ届くための一歩になる」
セレスの手首が、かすかに熱を持つ。
怒りなのか。
紋様の反応なのか。
分からない。
ただ、あの言葉を聞き流すことはできなかった。
「セレス」
レイフィアが小さく呼ぶ。
「今はまだ。人数を確認して、助ける方法を考えましょう」
「分かってる」
セレスは答えた。
けれど、その声は少し低かった。
そのとき。
倉庫の奥から、重い扉が開く音がした。
黒ローブたちが、一斉に頭を下げる。
奥の階段から、一人の男が姿を現した。
他の者よりも質の良い黒ローブ。
顔の半分を、銀色の仮面で隠している。
「準備は進んでいるか」
低く、よく通る声だった。
「はい。材料は不足していますが、次の刻印は可能です」
「失敗は許可しない」
銀仮面の男は、鉄格子の中の人々へ目を向ける。
「本物が動き始めている。時間がない」
セレスの呼吸が止まる。
本物。
それは、間違いなく自分のことだ。
「今日中に、次の実験を始めろ」
銀仮面の男が言う。
「街へ紋様を刻む準備も進める」
「了解しました」
その言葉と同時に。
倉庫の地下から、かすかな声が響いた。
「……たすけて」
小さな声。
けれど、確かに聞こえた。
「誰か……助けて……」
セレスとレイフィアは、顔を見合わせた。
鉄格子の中だけではない。
この倉庫の地下には、まだ誰かがいる。
そして。
次の実験は、今日中に始まる。
セレスは左手首を強く握った。
「……助ける」
窓の外の闇の中で。
白銀の紋様が、ほんのわずかに熱を帯びていた。
第二十五話を読んでいただき、ありがとうございます!
いよいよ倉庫街への潜入が始まりました。
黒ローブたちは、偽紋様を作るために人を集め、街に何かを仕掛けようとしています。
そして倉庫の地下には、さらに助けを求める声が……。
次回は、救出を優先するセレスたちが倉庫の内部へ踏み込みます。
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