第二十三話 偽物は、痛みを知らない
限定プリンを前にして、事件発生。
ミュゼの顔は、たぶん人生で三本の指に入るくらい悲しそうだった。
でも大丈夫。
プリンは逃げない。
……たぶん。
黒い粘液が、石畳の上で膨れ上がる。
それは獣のような形を取りながら、何本もの腕を生やしていった。
腕の先には、鈍く光る爪。
中央では、ぼろぼろの服を着た男が苦しそうに息をしている。
「う、あぁ……やめろ……」
男の声は震えていた。
けれど、男の手首に刻まれた黒と赤の紋様は、その声を聞いていないように脈打っている。
「本物……」
男の口が、勝手に動いた。
「本物を……回収しろ……」
次の瞬間、黒い粘液の獣が大きく跳ねた。
「来るぞ!」
ガロンの声が響く。
獣の爪が、セレスへ向かって振り下ろされた。
セレスは半歩だけ横へずれ、紙一重でそれを避ける。
石畳が砕け、黒い破片が飛び散った。
「重いな」
「見た目のわりに、って言うなよ!」
ガロンが大剣を振り抜く。
刃は粘液の腕を斬り裂いた。
しかし、切れたはずの部分はすぐに蠢き、地面に落ちた黒い粘液を吸収して元の形へ戻っていく。
「再生するのかよ……!」
「切るだけじゃ、止まりそうにないわね」
イリスは周囲を走りながら言った。
その手には、いつの間にか抜かれた剣があった。
「ミュゼ、避難は?」
「もうすぐ終わる!」
ミュゼは通りの端で、逃げ遅れた親子を安全な路地へ誘導していた。
「こっちだよ! 大丈夫、走れる?」
「でも、あの人が……」
小さな子どもが、黒い獣の中央にいる男を見て泣きそうな声を出す。
ミュゼの表情が少しだけ曇った。
「助けるよ」
けれど、すぐに強く言った。
「だから、今は危ない場所から離れて」
子どもは不安そうに頷き、母親と一緒に路地へ入っていった。
レイフィアは、少し離れた屋根の上へ駆け上がっていた。
その手には、細身の細剣が握られている。
「セレス! あの男の手首!」
「分かってる」
セレスは黒い粘液の隙間を見る。
獣の中心にいる男の右手首。
そこに刻まれた紋様は、まるで傷口のように脈打っていた。
黒と赤の線が皮膚の中へ食い込み、男の腕を少しずつ侵食している。
あれが核だ。
そう思った瞬間。
セレスの左手首が、強く熱を持った。
銀の腕輪の下で、白銀の紋様が光る。
視界の奥に、断片的な感覚が流れ込んできた。
黒い粘液。
痛み。
恐怖。
そして。
足りない。
足りない、足りない、足りない。
誰かの声ではない。
紋様そのものが、何かを求めているような感覚だった。
「……借り物の力」
セレスが呟く。
いつもなら、相手の特性を理解し、借りる。
岩猪なら硬化。
水棲魔物なら水中適応。
剣士なら剣術。
けれど、目の前のものは違う。
力の形だけを真似ている。
誰かから奪い、無理やり押し込めて、壊れながら動いている。
「セレス?」
イリスが声をかける。
「借りるな」
セレスは、手首を押さえた。
「これは、借りちゃいけない」
黒い獣が、再び跳ぶ。
今度はセレスだけではない。
避難の途中にいたミュゼへ向かって、伸びた腕が襲いかかる。
「ミュゼ!」
セレスの足が地面を蹴る。
間に合わない。
そう思った瞬間。
ガロンがミュゼの前へ飛び込んだ。
「下がれ!」
大剣を横に構え、黒い爪を受け止める。
重い衝撃が、通りに響いた。
「ぐっ……!」
ガロンの足が石畳を削る。
けれど、押し切らせない。
大きな背中が、ミュゼの前に立っていた。
「ガロン!」
「避難を続けろ! ここは俺たちがやる!」
ミュゼは唇を噛む。
怖くないはずがない。
けれど、彼女はすぐに頷いた。
「……分かった!」
そして、近くにいた人々へ向き直る。
「まだ動ける人は、こっち! 怪我してる人は私が見るから!」
ガロンが黒い腕を押し返し、大剣を振り抜く。
再生する腕を何度も斬りながら、獣を男から引き離そうとする。
「セレス! こいつ、核を守るように動いてやがる!」
「なら、核を止める」
セレスは男の方へ走る。
その進路を塞ぐように、黒い粘液が壁のように盛り上がった。
次々と伸びる腕。
避けるには多すぎる。
「通すわ!」
イリスが横から飛び込んだ。
剣が白い軌跡を描き、黒い腕の関節のような部分を正確に斬り払う。
粘液の流れが一瞬だけ乱れた。
「今よ!」
セレスはその隙間を抜けた。
中心にいる男へ近づく。
男は苦しそうに顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「……助けてくれ」
かすれた声だった。
「俺は……ただ……強くなれるって……言われて……」
男の腕に刻まれた紋様が、激しく脈打つ。
黒い線が首筋へ向かって伸びていく。
「違う……俺は、こんなの……」
「分かってる」
セレスは答えた。
「お前の力じゃない」
男の目が、わずかに見開かれる。
その瞬間。
紋様がさらに膨れ上がった。
黒い粘液が、セレスの腕を掴もうと伸びる。
セレスは左手を前へ出した。
白銀の紋様が光る。
けれど、借りない。
奪わない。
セレスは目の前の歪な紋様を、ただ見つめた。
その奥にあるものを、理解しようとする。
偽物は、力を求めている。
強さを欲しがっている。
けれど、それは自分のためではない。
誰かに作られ、使われ、壊れるために動かされている。
「お前は、何になりたい」
セレスは静かに尋ねた。
男は息を詰める。
「……俺は……」
黒い粘液が、さらに暴れる。
答えさせまいとするように。
「俺は……死にたく、ない」
声は小さかった。
けれど、確かだった。
その瞬間。
セレスの紋様が、今までとは違う光を放った。
白銀の光は、攻撃のためのものではない。
黒と赤の紋様へ触れ、絡みついた力の流れをほどいていく。
奪うのではない。
押さえつけるのでもない。
ただ、そこにあるものを、元へ戻すように。
「セレス!」
レイフィアの声が飛ぶ。
黒い粘液が、最後の抵抗のように大きく膨れ上がった。
獣の形が崩れ、無数の針のような腕がセレスへ向かう。
その前へ、ガロンが立つ。
「一人でやらせるかよ!」
大剣が唸る。
イリスが横に並び、無数の針を剣で斬り払う。
「セレス、続けなさい!」
ミュゼは少し離れた場所で、両手を掲げた。
「傷ついたら、すぐに治すから!」
レイフィアの細剣が飛ぶ。
刃は黒い粘液の中心を正確に貫き、紋様の動きを一瞬だけ止めた。
「早くしなさい!」
仲間の声が重なる。
セレスは、男の手首に手を重ねた。
「もう、終わりにしろ」
白銀の光が広がった。
黒と赤の紋様が悲鳴のように震える。
けれど、次の瞬間。
不自然な光は、少しずつ薄れていった。
黒い粘液が地面へ落ちる。
腕が崩れ、爪が消え、獣の形が失われる。
通りを覆っていた異様な気配が、ゆっくりと消えていった。
最後に残ったのは、石畳の上で倒れ込む男と。
その手首に残った、薄い火傷のような跡だけだった。
「……終わったのか?」
ガロンが大剣を下ろす。
「たぶん」
セレスは息を整えながら答える。
男の手首にあった紋様は、もう動いていない。
けれど。
完全に消えたわけではなかった。
黒と赤の線は、皮膚の奥に薄く残っている。
レイフィアが近づき、険しい顔をした。
「これは……魔法具の暴走じゃない」
「分かるのか?」
「似たようなものを見たことがある」
レイフィアの声は硬かった。
「昔、ある村で……人に力を与えると言って、体を壊す連中がいた」
「黒ローブか?」
セレスが尋ねる。
レイフィアは答えなかった。
ただ、倒れている男の手首を見つめていた。
「こいつは、実験に使われた」
その言葉に、通りの空気が冷える。
しばらくして、ギルドの職員と衛兵が駆けつけた。
男は治療のために運ばれていく。
セレスたちは、事情を説明することになった。
騒ぎが落ち着き始めたころ。
ミュゼが、菓子店の前で立ち止まった。
店の扉には、慌てた店主が「本日は臨時休業」と書いた札をかけている。
「……限定プリン」
ミュゼの声は、とても小さかった。
セレスは横に立つ。
「また今度買えばいい」
「でも、今日限定だったんだよ」
「明日には別の限定が出るかもしれない」
「それはそれで嬉しいけど……」
ミュゼは少しだけ笑った。
そのとき、レイフィアが紙袋を差し出した。
「これ」
「え?」
「さっき、店に入る前に買っておいたの」
紙袋の中には、小さな瓶に入った果実のプリンが五つ入っていた。
「……レイフィア」
「一つ多く買っただけよ」
「五つあるよ?」
「偶然よ」
「すごい偶然だね!」
ミュゼは一瞬だけ呆然としていた。
それから、花が咲くように笑った。
「ありがとう!」
その声に、レイフィアは少しだけ顔を逸らす。
「……別に」
セレスはその様子を見ながら、紙袋の中のプリンを一つ受け取った。
平和な朝は、長く続かなかった。
それでも。
仲間と一緒なら、壊れたものの中からでも、少しだけ笑えるものを見つけられるのかもしれない。
セレスはそう思いながら、左手首の腕輪へ触れた。
紋様は静かだった。
けれど、あの偽物に触れた感覚だけは消えない。
誰かが力を作ろうとしている。
誰かが、人を壊している。
そしてきっと。
その先には、自分がいる。
遠く離れた場所。
地下の暗い部屋で、黒ローブの男は水晶の映像を見つめていた。
映像の中では、白銀の光が偽紋様を鎮めている。
「破壊ではない」
男が低く呟く。
「本物は、偽紋様の術式そのものへ干渉できる」
隣にいた黒ローブが、静かに頭を下げる。
「では、次の段階へ?」
「ああ」
男は水晶に映るセレスの姿を見て、ゆっくりと笑った。
「実験体では足りない」
机の上には、複数の紙が置かれていた。
そこには、町の地図と。
いくつもの赤い印が記されている。
「次は、街そのものを使う」
暗闇の中で、赤い印だけが不気味に揺れていた。
第二十三話を読んでいただき、ありがとうございます!
偽紋様との初戦闘でした。
セレスの力は「借りる」だけではなく、相手を理解することで別の形にも使えるのかもしれません。
そして、レイフィアが知っている過去と、黒ローブたちの次の目的も少しずつ見えてきました。
なお、限定プリンは無事に確保されました。
ミュゼの士気は大事です。
次回は、事件の後始末と、レイフィアが知る黒ローブたちの手がかりに迫ります。
面白いと思っていただけたら、★評価・ブックマーク・感想で応援してもらえると嬉しいです!




