第百二十五話 灰色の紋様
断たれた翌朝です。
目を覚ますと、宿の天井が見えた。
窓の外は、もう明るい。鉱山町の朝の音が、遠くから聞こえてくる。つるはしの音、荷車の軋む音、誰かが誰かを呼ぶ声。
セレスは、ゆっくりと体を起こした。
どこも痛くない。熱もない。手も足も、ちゃんと動く。
ただ、静かだった。
いつもなら、目を覚ました時に、手首の奥でかすかに何かが脈打っている。眠っている仲間の気配が、なんとなく分かる。ガロンがもう起きて台所にいるとか、ミュゼがまだ寝ているとか。それが、何もなかった。
腕輪をずらしてみる。
白銀だったはずの紋様は、色が抜けて、くすんだ灰色になっていた。光らない。熱もない。ただの古い傷痕みたいに、肌の上に線が残っているだけだった。
(……本当に、全部か)
試しに、意識を向けてみた。仲間のほうへ、糸を伸ばすように。
何も起きなかった。伸ばそうとする手そのものが、どこにもない。何もない場所に、何もないものを探している感覚だった。
「――起きたの」
声がして、横を向いた。
寝台の脇の椅子に、イリスが座っていた。外套を肩に掛けたまま、膝の上に剣を置いている。目の下に、うっすらと影があった。
「……ずっと、いたのか」
「たまたまよ。眠れなかっただけ」
イリスは、それ以上何も言わなかった。
しばらく、どちらも黙っていた。廊下の向こうから、ガロンが鍋を叩く音が聞こえてくる。
「私が、先に入ったわ」
イリスが、ぽつりと言った。
「鈴が鳴った時。一番に柵をくぐって、一番に飛び込んだ。……あの子が、ほかの人が来たら切るって書いてたのに」
「鈴が鳴ったら入るって、決めてただろ」
「知ってるわよ、そんなこと」
イリスの手が、膝の上の剣の鞘を握りしめた。
「決めた通りにしたわ。それで、あんたがこうなった。……それだけの話よ」
「イリス」
「慰めなくていいわ。そういうの、似合わないから」
イリスは、窓の外に目をやった。横顔は、いつもと同じに冷たく見えた。けれど、鞘を握る指が、白くなっていた。
「お前が来なくても、あいつは切ってた」
セレスは言った。
「あの男が言ってただろ。俺を断たないなら、お前らを一人ずつ断たせるって。……あいつは、お前らを守ったんだ。俺じゃなくて、お前らを選んだ。それだけだ」
イリスは、何も言わなかった。
「それに」
セレスは、灰色の紋様に目を落とした。
「全部じゃなかった」
イリスが、振り向いた。
「一本だけ、残ってる。……あいつに繋がってる糸が」
胸の奥に、意識を向ける。何もない場所の、さらに奥。そこに、髪の毛より細い糸が一本、まだ温かいまま残っていた。昨夜から、一度も途切れていない。
「あいつは、生きてる。今も、この糸の先にいる」
イリスは、しばらくセレスの顔を見ていた。
それから、すっと立ち上がって、起こしていたセレスの肩を、ぐいと枕のほうへ押し戻した。
「おい……」
「寝なさい。病人が、偉そうに人を慰めてるんじゃないわよ」
そう言って、イリスは部屋を出ていった。扉を閉める直前、ちらりと見えた耳が、真っ赤だった。
◇
昼過ぎ、全員がセレスの部屋に集まった。
ガロンが運んできた粥を、セレスは寝台の上ですすっていた。病人扱いはやめろと言ったのだが、誰も聞かなかった。
「剣は、振れるの?」
レイフィアが、腕を組んで聞いた。
「さっき、裏で少し振った。体は動く。……ただ、重い」
「当たり前よ。紋様が消えても、あんたが体に染み込ませた剣の振り方まで消えたわけじゃないわ。消えたのは、仲間の力を借りる分だけ」
レイフィアは、淡々と言った。
「つまり、あんたは今、ただの腕の立つ銀ランクの剣士ってこと。それ以上でも、以下でもない」
「ただの、か」
「ただの剣士で、悪い?」
レイフィアの声は、少しも揺れていなかった。
「私も、イリスも、ガロンもミュゼも、ずっとその『ただの』で戦ってきたのよ。あんた一人が少し身軽になっただけ。……嫌なら、ほかの誰かを頼りなさい」
セレスは、粥の椀を見下ろした。
ずっと、自分が繋ぐ側だった。仲間の力を借りて、束ねて、自分の剣に乗せて。それが当たり前だと思っていた。
「セレスさん」
ミュゼが、寝台の脇にしゃがみ込んだ。目が、まだ少し赤い。昨夜はずっと泣いていたのだと、ガロンがこっそり教えてくれた。
「私、昨日、何もできませんでした。治癒も、届かなくて」
「傷じゃないからな」
「だから、今日から考えます。傷じゃないものを、どうやったら治せるか。……分からないけど、考えます」
ミュゼは、両手をぎゅっと握った。泣き虫の顔のまま、目だけが強かった。
「セレスさんがいつもしてくれたみたいに、今度は私たちが、セレスさんのほうに手を伸ばしますから」
セレスは、すぐには何も言えなかった。
(……手を伸ばす、か)
リンには、伸ばさないと決めた。お前が決めろ、と言った。けれど、自分は。
自分は、誰かが伸ばしてくれた手を、ちゃんと受け取ったことがあっただろうか。
「……頼む」
小さな声で、そう言った。
ミュゼは、ぱっと顔を輝かせて、それから慌てて目元をこすった。ガロンは腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。どこか満足そうだった。
◇
「これからのことだ」
アルトが、机の上に地図と、いつもの紙を広げた。
「リンは、期日の夜に北の隣国へ運ばれる。捕まえた男の話が本当なら、だ。この町は、国境まで北へ四日の途中にある」
紙の線は、もう四十本を切っていた。リンの壁の線は、それよりさらに少ないはずだ。そして昨夜、鈴に逆らったせいで、あいつの黒い線はまた伸びた。
「どこへ運ばれたのか、手がかりは」
「ある」
セレスは、胸の奥の糸に意識を向けた。
細い、細い一本の糸。その先が、どちらへ伸びているのか。目を閉じると、ぼんやりと分かった。
「北だ」
全員が、セレスを見た。
「あいつが残した糸が、北を向いてる。……たぶん、あいつのいるほうだ」
アルトは、しばらく黙ってセレスの顔を見ていた。それから、地図の上の北の国境に、指を置いた。
「なら、行き先は決まりだな」
窓の外で、鉱山町の煙が、北風に流されていた。
第百二十五話「灰色の紋様」をお読みいただき、ありがとうございます。
繋ぐ力を失ったセレス。でも、一本だけ残った糸がありました。そして今度は、仲間のほうがセレスに手を伸ばします。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




