第百二十六話 受ける手
今度は、ちゃんと呼びます。
出発の前の夜、セレスは宿の裏庭に一人で出た。
鉱山町の夜は、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。山から吹き下ろす風が冷たい。見上げると、煙の切れ間に星がいくつか光っていた。
(……怖くても、呼べって言われたんだよな)
北の塔の穀物庫で、女神はそう言った。今度は、ちゃんと呼んで。怖くても、と。
怖かった。紋様が戻らないと言われたら。もう二度と仲間と繋がれないと言われたら。それを聞くのが、何より怖かった。
だから、呼ぶことにした。
「――出てこい」
視界が、ふっと白く滲んだ。
『――セレス!』
真っ白な空間に、女神が駆け寄ってきた。いつもの気の抜けた登場の仕方ではなかった。息を切らして、セレスの両腕を掴む。
『よかった、呼んでくれた……! 昨日の夜から、ずっと待ってたんだから。呼ばなかったらどうしようって』
「……悪い。一日、かかった」
『一日なら、上出来だよ。前は何十日もかかったもん』
女神は、ほっとしたように笑ってから、セレスの左腕を取った。腕輪をずらし、灰色になった紋様を、指先でそっとなぞる。
その顔から、笑みが消えた。
『……ひどいね。根元から、外へ伸びる手を、全部断たれてる』
「戻るのか」
一番聞きたくて、一番聞くのが怖かったことを、セレスは真っ先に口にした。
女神は、少し黙った。それから、まっすぐにセレスを見た。
『戻るよ』
セレスの肩から、力が抜けた。
『でも、すぐにじゃない。それと、今までと同じやり方じゃ、戻らない』
「……どういうことだ」
『根っこは、無事なの』
女神は、灰色の紋様の、さらに奥を指さすようにした。
『あの子が断ったのは、根から外へ伸びる手のほう。根そのものは、断てない。……あの子にも、誰にも』
「なんで、断てないんだ」
『それは――』
女神は、言いかけて、口をつぐんだ。
『……ごめん。前に、次はもう少し言えるって言ったよね。だから、少しだけ言う。あなたとあの子は、同じところから枝分かれしてるの。根っこが同じだから、あの子の断つ力は、あなたの根には届かない。自分の根を断つようなものだから』
セレスは、息を呑んだ。
ロッサ村の夜。坑道の奥。リンの黒い線の下に見えた、白くて細い光。自分のと同じだと感じた、あれ。
「どこで、分かれたんだ」
『それは、まだ言えない。……本当に、ごめん』
女神は、申し訳なさそうに目を伏せた。セレスは、それ以上は聞かなかった。少しだけでも言ってくれたことが、前よりずっと前に進んでいる気がした。
◇
「じゃあ、どうやったら戻る」
『それなんだけどね』
女神は、セレスの前に座り込んだ。セレスも、つられて腰を下ろす。
『あなたの力って、ずっと、あなたのほうから手を伸ばすものだったでしょう。仲間に糸を伸ばして、借りて、束ねて』
「ああ」
『その伸ばす手が、今はない。だから、逆をやるの』
「逆?」
『仲間のほうから、あなたに手を伸ばしてもらう。あなたは、それを受け取る。……受ける口は、まだ残ってるから』
受ける口。
北の塔の丘で、白い髪の男は言った。私には、あなたの力を受ける口がありません、と。リンは、伸びてくる手を、届く前に断ってきた。
そして自分は。
「……俺は、ずっと伸ばす側だったな」
『うん。誰にでも手を伸ばす。それが、あなたのいいところ』
女神は、少しだけ寂しそうに笑った。
『でも、伸ばしてばっかりだと、受け取るのが下手になるの』
セレスは、何も言い返せなかった。
昨日、ミュゼは言った。今度は私たちが、セレスさんのほうに手を伸ばしますから、と。あの時、頼む、と口にするまで、ずいぶん時間がかかった。
『受け取って。仲間の手を。そうしたら、根っこがもう一回、外へ手を伸ばし直す。前とは、ちょっと違う形になるかもしれないけど』
「……分かった」
『それとね』
女神は、セレスの胸のあたりを、指でとん、と突いた。
『一本、残ってるでしょう』
「……ああ。リンのほうへ伸びてる」
『それ、あなたが伸ばしてる糸じゃないよ』
セレスは、顔を上げた。
『あなたの伸ばす手は、全部断たれた。だから、その一本は、あなたのじゃない。……向こうから、伸びてきてるの』
「向こうから……」
『あの子の手。断つ子が、断たずに残した。自分のほうから繋いだ、たった一本』
女神の声が、少しだけ震えていた。
『あの子が、自分から手を伸ばしたの。たぶん、生まれて初めて』
胸の奥の糸が、かすかに温かくなった気がした。
坑道の奥で、リンの指が、床の上を指一本ぶんだけ滑った。あの続きだったのだ。誰にも見えないところで、あいつは、手を伸ばしていた。
(……ちゃんと、届いてるぞ)
声には出さなかった。出さなくても、伝わる気がした。
『今度は、ちゃんと呼んでくれてありがとう』
白い光が薄れ始める中で、女神が言った。
『次も、怖くても呼んでね。……あと、仲間の手、ちゃんと握るんだよ。照れてないで』
「照れてない」
『照れてるよ。顔、赤いもん』
言い返す前に、白い空間は消えていた。
◇
翌朝、一行は鉱山町を発った。
北への街道は、山あいを縫うように続いていた。荷物を背負い直したところで、ミュゼが、当たり前のようにセレスの右手を取った。
「……何だ」
「手を伸ばしますって、言いましたから」
ミュゼは、にこにこと笑っていた。小さな手が、セレスの手をぎゅっと握る。
断たれて以来、まだ感覚の鈍い右手だった。それでも、温かさだけは、分かった。
腕輪の下で、何かが、ちり、と動いた。
ずらして見ると、灰色の紋様の端に、ほんの針の先ほどの、白い点が灯っていた。
「……あ」
「どうしました?」
「いや。……何でもない」
セレスは、ミュゼの手を、握り返した。
「ちょっと、いつまで手つないでるのよ」
後ろから、イリスの声が飛んできた。
「イリスさんも、反対側つなぎます?」
「つながないわよ」
「じゃあ、私が両方つなぎますね」
「そういう意味じゃないわ」
ガロンが、声を殺して笑っていた。アルトは地図から目を上げずに、口の端だけを上げている。レイフィアは、呆れたように肩をすくめた。
胸の奥の一本の糸は、北を向いたままだった。その先にいるあいつの手は、まだ、少しも離れていなかった。
第百二十六話「受ける手」をお読みいただき、ありがとうございます。
ずっと手を伸ばす側だったセレスが、今度は受け取る側に。そして、残った一本の糸は、リンのほうから伸びてきた手でした。リン敵対化編の前半は、ここで一区切りです。次回から、北へ。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




