第百二十四話 一本だけ
坑道の奥で、リンが選びます。
セレスは、左手で剣の柄を握った。
立ち上がりながら、リンの前に体を入れる。白い髪の男との間に、壁を作るように。
「帰れ。今夜は、話をしに来ただけだ」
「ええ。存じています」
男は、少しも構えなかった。壁の隙間から一歩だけ部屋に入り、穏やかに微笑む。
「ですから、私も話をしに来ました。……リン。あの方からのお言いつけです」
背中で、リンが息を詰めるのが分かった。
「繋ぎ手を、断ちなさい。糸だけではなく、紋様ごと。期日の前にと思っていましたが、ご自分から来てくださったのなら、今夜でも同じことです」
「……やだ」
小さな声だった。けれど、はっきりと聞こえた。
セレスは、思わず振り返りそうになった。リンが、あの男に向かって、いやだと言った。
男は、困ったように首を傾けた。
「そうですか」
それだけだった。怒りもしない。声も荒らげない。
「では、あの方にお任せしましょう」
ちりん。
鈴の音が、坑道の上のほうから降ってきた。
遠い。けれど、はっきりと届く。地の底のこの部屋まで、真っ直ぐに。
「――っ」
リンが、膝をついた。首筋を押さえる指の隙間から、黒い光が滲む。顎の下までだった黒い線が、じわり、と頬のほうへ這い上がっていく。
「リン!」
「来ないで……!」
手を伸ばしかけたセレスを、リンが鋭く止めた。
ちりん。ちりん。
鈴の音が、続けざまに鳴った。そのたびに、リンの体が小さく跳ねる。黒い線が、頬の上を、目元に向かって伸びていく。
「お前……!」
セレスは男に剣を向けた。男は、目を細めただけだった。
「私ではありませんよ。あの方です。逆らえば、こうなる。リンはよく知っているはずです」
鈴は、それからも間を置いて鳴り続けた。鳴るたびに黒い線は伸び、リンは膝をついたまま、歯を食いしばって耐えていた。セレスは、男から剣先を外せなかった。どれだけの時が過ぎたのか、分からなくなった頃。
坑道の上から、別の音が近づいてきた。
足音だった。いくつも。石を蹴り、壁にぶつかりながら、駆け下りてくる。
鈴が鳴ったら、全員で入る。アルトとの約束だった。
(……来るな)
セレスは、声に出しそうになった。手紙の最後の一行が、頭の中で鳴っていた。
ほかのひとがきたら、わたしはきる。
「――セレス!」
崩れた石壁の隙間から、最初に飛び込んできたのはイリスだった。抜き身の剣を手に、壁の光に目を細めながら、部屋の中を見渡す。すぐ後ろに、ガロンの大きな影が続いた。ミュゼ、レイフィア、アルト。全員が、そこにいた。
膝をついたリンが、ゆっくりと顔を上げた。
仲間たちを、見ていた。
「……来ないでって、書いたのに」
リンの声が、震えていた。
「ひとりで、って、書いたのに」
「リン、違う、こいつらは――」
「断ちなさい」
白い髪の男が、静かに言った。
「繋ぎ手を断たないのなら、あの方は、お仲間のほうを断たせるそうです。あなたの手で、一人ずつ。……どちらでも構わない、と仰っていました」
部屋の空気が、凍りついた。
リンの目が、仲間たちの上を順に滑った。イリスの剣。ガロンの大剣。ミュゼの杖。レイフィアの細剣。アルトの、何も持っていない手。
それから、セレスを見た。
ちりん。
鈴が、もう一度鳴った。
リンが、立ち上がった。
首筋から頬へ、黒い線を走らせたまま、ふらつく足で一歩踏み出す。セレスとの距離が、縮まる。坑道に入った時に空けていた、手の届かない距離が。
届く距離まで、来た。
(……ああ)
セレスは、剣を下ろした。
分かってしまった。リンが何を選んだのか。仲間を一人ずつ断たせられるくらいなら、自分を断つ。それが、あいつの出した答えだった。
「セレス、下がって!」
イリスの声が飛んだ。セレスは、動かなかった。
「……いい」
リンにだけ聞こえるように、セレスは言った。
「断っていい。俺は、結び直すから」
リンの目が、大きく揺れた。
右手が、持ち上がる。いつもの、断つ前の静かな握り方だった。
その手が、セレスの胸元の前で、そっと握られた。
ぷつり。
北の塔でも、ロッサ村でも聞いた、あの音だった。
けれど、今度は違った。
糸だけではなかった。もっと深いところで、何かが切れた。仲間たちへ伸びていた糸が、一本残らず断たれる。それだけでなく、糸が生まれてくる根元まで、すとんと抜け落ちたように感じた。
腕輪の下の紋様が、冷たくなった。
熱を帯びるはずの白銀の線が、色を失っていく。光が、ひとつ、またひとつと消えていく。ガロンの重さも、イリスの鋭さも、ミュゼの温かさも、レイフィアの細い光も、アルトの静かな呼吸も、何もかもが遠く、聞こえなくなった。
膝から、力が抜けた。
崩れ落ちる体を、誰かの腕が受け止めた。ガロンだった。何か叫んでいる。けれど、その声さえ、ひどく遠い。
(……全部、か)
何もない。
この世界で目を覚ましてから、ずっと手首の奥にあったものが、どこにもない。
――いや。
何もない中に、ひとつだけ。
ほんの細い、髪の毛よりも細い糸が、一本だけ残っていた。消えかけの灯りみたいに、かすかに、かすかに温かい。
その糸の先が、どこへ伸びているのか。セレスには、すぐに分かった。
目の前に立っている、リンだった。
『――一本、残したな』
鈴の音に乗って、低い声が降ってきた。白い仮面の男の声だった。
『全部と言ったはずだが。……まあいい。一本では、何も繋げまい』
リンは、答えなかった。
握った右手を胸に抱えるようにして、ただ立っていた。頬まで這い上がった黒い線が、壁の光を受けて、濡れたように光っていた。
「リン」
白い髪の男が、その肩に手を置いた。足元から、黒い光が湧き上がる。
リンは、最後に一度だけ、ガロンの腕の中のセレスを見た。
唇が動いた。声は聞こえなかった。
黒い光が二人を包んで、消えた。
壁の紋様が、ひとつ、またひとつと光を失っていく。暗くなっていく部屋の中で、セレスは、胸の奥に残った一本の糸の温かさだけを、ぼんやりと感じていた。
第百二十四話「一本だけ」をお読みいただき、ありがとうございます。
リンは、仲間を守るために、セレスを断ちました。全部ではなく、一本だけを残して。最後に動いた唇が何と言ったのかは、まだ分かりません。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




