第百二十二話 ひとりで
一人で行くか、行かないか。
宿の一室に戻っても、イリスは腕を組んだまま、扉の前から動かなかった。
まるで、そこを通さないと決めているみたいだった。
「……座れよ」
「座らないわ」
「話もできないだろ」
「話なら立ったままでもできるでしょう。あんたが一人で行くのをやめるって言うまで、私はここをどかない。それだけよ」
ガロンが、寝台の端でため息をついた。ミュゼは困った顔で二人を見比べ、レイフィアは窓辺で腕を組んでいる。アルトは、机の上に例の手紙を広げたまま、黙ってそれを見下ろしていた。
「罠かもしれない、ってのは分かってる」
セレスは、手紙の文字に目を落とした。
「でも、もし本当にあいつが書いたなら。……あいつが自分から何か言いたいなんて、初めてなんだ。塔でも、ロッサ村でも、あいつは一度も、自分からこっちへ来なかった」
「だから行くの? 一人で?」
「書いてある。ほかの人が来たら、切るって」
「切られればいいじゃない」
イリスが、ぴしゃりと言った。
「私の力くらい、いくらでも切らせてあげるわ。あんたが一人で戻ってこないよりは、ずっとましよ」
部屋が、しんと静まった。
言ってから、イリスは自分で驚いたような顔をした。それから、ふいと横を向く。
「……今のは、言葉のあやよ」
ミュゼが、両手で口を押さえた。ガロンは天井を見上げている。セレスは、どう返せばいいのか分からなかった。
「……悪い」
「謝らないで。余計に腹が立つから」
イリスは、それきりこちらを見なかった。
◇
「整理しよう」
しばらくして、アルトが口を開いた。手紙の上に、指を置く。
「リンが書いた条件は二つ。一人で来ること。ほかの者が来たら切ること。……逆に言えば、セレス以外が坑道の奥まで入らなければ、リンは何もしないってことだ」
「それで?」
イリスが、低い声で聞いた。
「坑道の入り口までなら、俺たちが行っても文句はないだろう。中に入るのはセレスだけ。俺たちは入り口で待つ」
アルトは、セレスの背負い袋のほうを顎で示した。
「それと、あの木箱だ。鈴が鳴れば、白い仮面の男が近くにいる。その時は、条件なんか知ったことか。全員で入る」
「鳴らなかったら?」
「待つ。セレスが出てくるまで」
イリスは、しばらく黙っていた。
「……刻限を決めて」
「刻限?」
「夜明けまで。夜明けになっても出てこなかったら、鈴が鳴らなくても入る。それなら、いいわ」
セレスは、イリスの顔を見た。イリスは、こちらを見なかった。
「分かった。夜明けまでだ」
◇
約束の夜までの二日間、一行は手分けして、いちばん深い坑道のことを調べた。
町の鉱夫たちの話では、その坑道はひと月ほど前に掘り進めた先で、古い石壁にぶつかったのだという。崩してみると、奥に、誰も知らない部屋が出てきた。壁一面に細かな模様が刻まれていて、夜になると青白く光る。魔物が湧き始めたのは、それからだ。
「……壁のある部屋ね」
レイフィアが、鉱夫から聞いた話を伝えながら、眉を寄せた。
「旧王都の塔と、北の塔と、同じもの。それが、鉱山の底にも埋まってたってこと」
「誰が作ったんだ、そんなもん」
ガロンが唸った。誰も答えられなかった。ただ、白い仮面の男たちがこの町を選んだ理由は、冒険者が集まっているからだけではなさそうだった。
夜になると、町は坑道の入り口に鉄の柵を下ろす。湧いた魔物が外へ出ないように、朝まで誰も入れない決まりだという。町長に掛け合ったのはアルトだった。銀ランクの冒険者が一人、深い坑道の魔物を調べに入る。仲間は入り口で待つ。それなら、と町長は渋い顔で柵の鍵を貸してくれた。
約束の日の夕方、セレスは宿の裏で剣を振っていた。
左手の剣は、レイフィアが剣帯を直してくれてから、ずいぶん抜きやすくなった。右手は、まだ柄の感触がぼんやりとしか分からない。それでも、握ることはできる。
「振りすぎよ」
声がして、振り返るとレイフィアが立っていた。手に、小さな布の包みを持っている。
「本番の前に腕を使い切ってどうするの。……ほら」
包みを、無造作に放ってくる。受け取ると、中には干した果物と、固く焼いた菓子がいくつか入っていた。
「坑道の奥は冷えるわ。何か口に入れておかないと、指がもっと動かなくなる。ミュゼから。渡しといてって」
「ミュゼは?」
「イリスの機嫌を取りに行ったわ。命知らずよね」
レイフィアは、セレスの右手にちらりと目をやった。
「それと。暗いところでは、右の指はもっと鈍るわ。剣は左。右は壁に触れて、道を確かめるのに使いなさい。……前に、似たような洞窟で、指の感覚をなくした人を見たことがあるの」
それだけ言うと、レイフィアは宿の中へ戻っていった。
セレスは、包みの中の菓子をひとつ口に入れた。思っていたより、ずっと甘かった。
◇
夜。
坑道の入り口に、一行が揃っていた。鉄の柵の向こうは、真っ暗な口を開けている。冷たい風が、地の底から吹き上がってきた。
アルトが柵の鍵を開けた。きい、と錆びた音が響く。
「木箱は、俺が持っておく」
アルトが、セレスの背負い袋から鈴の箱を受け取った。
「鳴ったら、すぐ行く。鳴らなくても、夜明けには行く。……それまでは、ここで待つ」
「ああ」
セレスは、仲間たちの顔を順に見た。
ガロンは、腕を組んで仁王立ちしていた。何かあったら柵ごとぶち抜く、という顔をしている。ミュゼは、杖を胸に抱いて、泣きそうなのをこらえていた。レイフィアは、腕を組んで、そっぽを向いていた。
イリスは、まっすぐにこちらを見ていた。
「セレス」
「何だ」
「夜明けは、一回しか待たないわよ」
いつもの、短くて冷たい声だった。
「……分かってる」
セレスは、ランタンを片手に、柵の内側へ踏み出した。
背中で、柵がまた、きい、と鳴った。振り返らなかった。振り返ったら、イリスがどんな顔をしているのか、見てしまう気がした。
坑道は、思ったよりも広かった。荷車が通れるほどの幅の通路が、ゆるやかに地の底へと下っていく。壁には古い支柱が並び、ところどころに鉱夫たちの残した目印が刻まれていた。
降りるほどに、空気が冷たくなっていく。
そして、どこまで降りても、魔物の気配はなかった。湧くと聞いていたはずの魔物が、一匹もいない。
(……誰かが、先に片付けたのか)
通路の脇に、黒い煤のような跡が、点々と残っていた。何かが崩れて、消えた跡のように見えた。
どれだけ降りただろう。
通路の突き当たりに、崩れた石壁があった。その向こうから、青白い光が漏れている。
セレスは、ランタンを足元に置いた。
崩れた壁の隙間をくぐると、そこは、見覚えのある部屋だった。壁一面の細かな紋様。青白い光。張り詰めた冷たさ。
部屋の真ん中に、リンが座っていた。
膝を抱えて、こちらを見上げている。左の首筋から顎の下まで、黒い線が這い上がっていた。
「……ほんとに、ひとりで来た」
リンは、少しだけ笑った。
ロッサ村の月の下で見た、あの平らな顔ではなかった。
第百二十二話「ひとりで」をお読みいただき、ありがとうございます。
一人で行くか、行かないか。イリスの「言葉のあや」は、たぶん言葉のあやではありません。そして坑道の奥で、リンが待っていました。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




