第百二十一話 ひらがなの手紙
北の鉱山町へ向かう道中です。
旧王都を発って二日目の朝、セレスは剣の位置に手こずっていた。
右手の感覚は、少しずつ戻ってきている。ドルンの銭の冷たさが分かったあの朝から、指の奥にぼんやりと熱が通うようになった。それでも、まだ剣を任せられるほどではない。だから左の腰に差しているのだが、どうにも収まりが悪い。歩くたびに鞘が脚に当たって、そのたびに半歩ずれる。
「……ちょっと止まりなさい」
後ろから声がした。レイフィアだった。
「何だ」
「いいから。見てて危なっかしいのよ」
レイフィアはセレスの前にしゃがみ込むと、剣帯の留め具を外して、手早く締め直し始めた。鞘の角度を少し前に倒し、余った革を折り返して結び目を作る。慣れた手つきだった。
「左で抜くなら、鞘はもっと前。柄が腰骨の上に来るようにしないと、抜く時に一拍遅れるわ。……ほら、これで抜いてみて」
言われた通りに抜くと、剣は驚くほどすんなり手に収まった。
「……おお。助かる」
「別に。あんたが遅れて、こっちが巻き込まれたら困るだけよ」
レイフィアは立ち上がると、さっさと前を向いてしまった。セレスが礼の続きを言おうとすると、わざとらしく道端の花に目をやる。
(……あれは、照れてるな)
ミュゼが、後ろでにやにやしていた。
「レイフィアさん、優しいですね」
「優しくない」
「昨日の夜、セレスさんが寝たあと、剣帯をずっと見てましたよね。どこを直せばいいか考えてたんじゃ」
「見てない」
「見てましたよ」
「見てないって言ってるでしょ!」
レイフィアの声が、街道に響いた。前を歩いていたガロンが振り返って、何事かという顔をする。イリスは振り返りもしなかった。
「朝からうるさいわね」
「イリスさんも、昨日の夜、起きてましたよね」
「寝てたわ」
「ガロンさんのいびきが三回止まったの、数えてたって言ってたじゃないですか」
「……寝言よ」
イリスの足取りが、ほんの少しだけ速くなった。それきり、振り返らなかった。
ガロンが、ぼそりとセレスに言った。
「……ミュゼのやつ、最近、強くなったな」
「何が」
「全部だ」
◇
アルトが追いついてきたのは、その日の夕方だった。
捕まえた黒ローブを近くの町のギルドへ引き渡して、早馬を借りて街道を北上してきたらしい。馬を降りると、少し疲れた顔で懐から封書を一通取り出した。
「町のギルドに、王都から回状が届いてた。俺たち宛ての添え書きつきでな」
「王都から?」
「あの上役からだ。……ユーリが着いたそうだ」
ミュゼが、ぱっと顔を上げた。
「ユーリさん、無事だったんですか!」
「ああ。ヨルを母親のところへ送り届けて、オルドと一緒に王都へ入った。監視隊の件で、本人が証言した。副官の報告書と合わせて、隊長の上にいた連中まで調べが入るそうだ」
アルトは添え書きの一文を指でなぞった。
「最後に、伝言がある。『借りは、まだ返してない。王都で待ってる』……だそうだ」
セレスは、北の塔で別れた時のユーリの顔を思い出した。礼は言わない、と言い張っていた少年の顔だ。
「……律儀なやつだな」
「あんたに似たんじゃない?」
イリスが、さらりと言った。
「どこが」
「言ったことを曲げないところ。面倒くさいところ」
「後半は余計だ」
「事実よ」
ミュゼが、ヨルちゃんも元気かなあ、と嬉しそうに空を見上げていた。重い話ばかりが続いていた旅の中で、久しぶりに、誰かが無事に家へ帰った知らせだった。
アルトは封書をしまうと、もうひとつ紙を出した。いつもの、六十一本の線の紙だ。炭で、端の一本を細く消す。
残りは、四十本あまりになっていた。
そして、旧王都の壁に刻まれていたリンの線は、それよりさらに六本少ない。
誰も口にはしなかったが、全員がそれを覚えていた。
◇
カルデの鉱山町に着いたのは、旧王都を発って四日目の昼だった。
山の斜面にへばりつくように、灰色の家々が段々に並んでいる。あちこちから煙が上がり、つるはしの音と荷車の軋む音が絶え間なく響いていた。坑道の入り口には、腕っぷしの強そうな冒険者たちがたむろしている。
「ずいぶん集まってるな」
ガロンが、あたりを見回した。
「新しく掘った深い坑道から、魔物が湧くようになったらしい。腕の立つ冒険者を、町が高い報酬で集めてる」
アルトが、来る途中で聞き込んだ話を説明した。
「捕まえた男の言ってた通りだ。……力の強いやつが集まる場所。練習には、ちょうどいいってわけだ」
セレスは、坑道の黒い入り口を見上げた。
この町のどこかに、またリンが連れてこられる。冒険者を見つけては、断たせるために。
ギルドの出張所は、坑道の入り口のすぐ脇にあった。中は冒険者でごった返していて、壁の掲示板には依頼書がびっしりと貼られている。その端に、一枚だけ赤い枠で囲まれた貼り紙があった。
『注意。ここ十日で、力を失う冒険者が二組出ている。夜間の単独行動を控えること』
「……もう、来てるのね」
レイフィアが、小さく言った。
受付の前の列に並ぶと、前にいた冒険者の何人かが、ちらちらとこちらを振り返った。ひそひそと、声が交わされる。
「おい、あれ……銀髪の」
「斬らずの銀か? 本物?」
「北の塔の話、ここまで届いてんのかよ」
(……ここでもか)
セレスは、聞こえないふりをした。隣でミュゼが、嬉しそうにこっそり胸を張っている。
順番が来ると、受付の若い女性が、セレスの顔を見て、あっと声を上げた。
「あの、もしかして……セレスさん、ですか?」
「そうだけど」
「よかった。……あの、これ、お預かりしてるものがあるんです」
受付の女性は、カウンターの下から、小さく折り畳まれた紙を一枚取り出した。
「昨日の夜に、女の子が置いていったんです。銀色の髪の、小さい冒険者の人が来たら渡してほしいって。……灰色の髪の、痩せた子でした」
セレスの手が、止まった。
紙を受け取る。右手で。まだほんの少ししか感覚の戻らない指先に、薄くてかさついた紙の手触りが、かすかに伝わってきた。
開くと、たどたどしい文字が並んでいた。
少し傾いた、ひらがなばかりの文字。旧王都の壁に刻まれていた、あの「まだ」の二文字と、同じ癖だった。
『いっかいだけ、はなしたい。
みっかあとの よる、いちばんふかい こうどうの おく。
ひとりで きて。
ほかのひとが きたら、わたしは きる』
読み終えても、しばらく誰も何も言わなかった。
背後で、冒険者たちの喧騒だけが続いていた。
「……罠よ」
最初に口を開いたのは、イリスだった。
「どう見ても罠でしょう。一人で来い、なんて」
「あいつの字だ」
「字なんて、いくらでも真似できるわ」
「それでも、あいつの字だ」
セレスは、紙から目を離さなかった。
昨日から数えて、三日後の夜。明後日の夜だ。リンは昨夜ここに来て、自分で受付に紙を預けて、また連れ戻されたことになる。白い髪の男に知られずに、そんなことができたのかどうかは分からない。
この町が次の練習場所だということは、リンも聞かされていたはずだ。なら、繋ぎ手がここまで追ってくることも、分かっていたのかもしれない。
分からないけれど、この字は、あいつが自分の手で書いたものだと思った。
手を伸ばすのが怖くて、伸びてくる手から断ってきたあいつが、初めて、自分のほうから。
「……セレス」
イリスが、低い声で言った。いつもの、短くて冷たい声だった。
「一人で行く気なら、先に言っておくわ」
「何を」
「止めるわよ。腕ずくでも」
セレスは、ようやく顔を上げた。
イリスは腕を組んで、まっすぐにこちらを見ていた。その目は、怒っているようにも見えたし、怖がっているようにも見えた。
第百二十一話「ひらがなの手紙」をお読みいただき、ありがとうございます。
久しぶりに、少し賑やかな道中でした。ミュゼが、最近ちょっと強いです。そして鉱山町で待っていたのは、リンからの手紙。一人で来て、と。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




