第百十九話 結び直す
旧王都の大通りで、受ける口を持たない男と向き合います。
白い髪の男は、セレスの三歩手前で足を止めた。
手には何も持っていない。剣も、杖も、鍵さえも。北の塔の穀物庫の前で見た時と同じ、穏やかな顔で、こちらを眺めているだけだった。
「受ける口を持たない者が、相手をする。……どういう意味だ」
「言葉の通りですよ」
男は、軽く肩をすくめた。
「あなたの力は、触れた相手と繋がって、その中身を借りるものでしょう。ですが、私には借りられる中身がない。ですから、あなたの前に立つのは私の役目です。他の者は、あなたの手の届かないところで、お仲間の相手をします」
その言葉が終わるより早く、周りの黒ローブたちが動いた。
セレスには近づかない。距離を取ったまま、イリスとガロン、ミュゼとレイフィア、アルトへと、それぞれ数人ずつで散っていく。投げ縄のような黒い鎖が、四方から飛んだ。
「ちっ……!」
イリスが鎖を斬り払う。だが、一本を払えば二本が来る。レイフィアはミュゼを背に庇いながら、細剣で鎖の結び目を正確に断っていくが、数が多すぎた。
ガロンが、大剣を振り上げようとして、顔を歪めた。指が、柄の上でほどけかける。
「くそっ、握れ……!」
「ガロン!」
セレスが振り返った瞬間、目の前の空気が動いた。
白い髪の男が、いつの間にか間合いの内側にいた。手のひらで、セレスの左の手首を軽く払う。それだけで剣先が逸れて、石畳を削った。
「よそ見をしてはいけませんよ」
(こいつ、戦えるのか)
北の塔の丘で手首を掴んだ時、この男は振りほどこうともしなかった。振りほどく必要がなかったのだと、今になって分かった。
踏み込んで、斬り返す。慣れない左手の剣は、思ったより一拍遅れた。男は、半歩引くだけでそれを避けた。反撃はしてこない。ただ避けて、払って、セレスを仲間のほうへ行かせないように、ゆったりと立ち位置を変え続ける。
時間を稼いでいるのだ、とセレスは気づいた。
自分をここに縛りつけておけば、仲間は黒ローブに囲まれたまま、少しずつ削られていく。触れなければ繋がれない。繋がれなければ、繋ぎ手はただの、右手の利かない小柄な剣士だ。
男の肩越しに、ミュゼの悲鳴が聞こえた。鎖が、杖を握る腕に巻きついている。
「ミュゼ!」
「行かせませんよ」
男が、また立ち位置を変える。セレスの剣は、その白い髪の先さえ掠めなかった。
(……触れなきゃ、繋がれない?)
セレスは、奥歯を噛んだ。
違う。
敵に触れる必要なんて、最初からなかった。塔の前で二十人を黙らせた時も、セレスが繋いでいたのは敵じゃない。仲間だ。イリスの鋭さ、ガロンの重さ、ミュゼの優しさ。それを束ねて、自分の剣に乗せていた。
ロッサ村の夜、リンはその糸を一本残らず断ち切った。あれから四日、セレスは一度も繋ぎ直そうとしていなかった。指先の感覚が戻らないのと同じで、糸ももう戻らないものだと、どこかで思い込んでいた。
けれど、糸は。
(切れたなら、結び直せばいい)
セレスは、剣を握ったまま、腕輪の下の紋様に意識を向けた。
熱は、すぐには来なかった。右手と同じで、何も感じない。断たれた跡が、ひやりと冷たいまま残っている。
それでも、手を伸ばした。
仲間のほうへ。目には見えない、細い糸を一本ずつ。
最初に返ってきたのは、ガロンだった。指がほどけかけた大剣の柄の向こうから、太くて温かいものが、ぐっとこちらを掴み返してくる。まるで、待っていたみたいに。
次に、イリス。鋭くて、まっすぐな糸。レイフィアの細い光。鎖に絡まれながらも、ミュゼの温かさが、必死にこちらへ伸びてくる。アルトの、静かで揺るがない呼吸。
ひとつ、またひとつ。断たれた網が、結び目を作りながら戻っていく。前よりも不格好で、結び目だらけの網だった。けれど、確かに繋がっていた。
右手の指先に、ちり、と熱が走った。
(……あ)
四日ぶりの感覚だった。ほんの一瞬、針の先ほどの小さな熱。仲間の糸が、断たれた指の奥を、かすかに温めていった。
「――ガロン、振れ!」
叫んだ声に、ガロンが応えた。
ほどけかけていた指が、柄を握り締める。ガロン一人の力ではなかった。イリスの鋭さが刃筋を通し、レイフィアの光が狙いを定め、ミュゼの温かさが固まった腕をほぐしていく。
「おらぁっ!」
大剣が、唸りを上げて横薙ぎに走った。
鎖ごと、黒ローブが三人まとめて宙を舞った。廃墟の壁に叩きつけられて、崩れた石と一緒に草むらへ転がり落ちる。
その一振りが、合図になった。
イリスの剣が、鎖を払うのではなく、鎖を投げた手元へ一直線に届いた。レイフィアが結び目を三つ同時に断ち、自由になったミュゼの杖から、まばゆい光が弾ける。目を灼かれた黒ローブたちが、悲鳴を上げて後ずさった。アルトは足元の鎖を拾い上げ、逃げ遅れた一人の足を正確に絡め取った。
十数人いた黒ローブが、またたく間に崩れていく。誰も斬られてはいなかった。ただ、立っている者がいなくなっていった。
「ば、馬鹿な……」
石畳に転がった黒ローブの一人が、震える声で言った。
「繋がりは、断ったはずだ。あの子が、全部断ったって……四日で、結び直したのか……!」
白い髪の男が、初めて足を止めていた。
穏やかな微笑みは、まだ顔に残っている。けれど、その目だけが、少しも笑っていなかった。
「……なるほど」
男は、セレスを見た。
「断たれても、結び直す。それも、自分の糸ではなく、お仲間の糸を。……あの方が、あなたを『繋ぎ手』と呼べと仰った意味が、ようやく分かりました」
「次は、お前だ」
セレスは、左手の剣を構え直した。仲間の力が、背中から流れ込んでくる。男に触れても、何も借りられないことは分かっている。それでも、今なら届く気がした。
その時だった。
ちりん。
頭の上から、鈴の音が降ってきた。
大通りの突き当たり、リンがいた塔の、一番高い窓。崩れかけた窓枠の奥に、白いものがあった。
仮面だった。
夕日の影になって、顔の輪郭は分からない。見えたのは、黒い亀裂の走る白い仮面と、窓枠に添えられた白い手袋の手。その指先に、細い鈴がひとつ下がっていた。
仮面の奥の目が、まっすぐにセレスを見下ろしていた。
『……結び直したか』
鈴の音に乗って、声が降ってきた。遠く離れているはずなのに、耳元で囁かれたように近い。宿場の裏庭で聞いた、あの低い声だった。
『よかろう。繋ぎ手。……ようやく、そう呼ぶに値する』
白い手袋の指が、鈴をもう一度揺らした。ちりん。
『だが、結んだ糸は、また断たせるまでだ。あの子に、何度でもな』
「――お前!」
セレスが塔へ駆け出そうとした時には、もう遅かった。
窓の奥の仮面は、影の中に溶けるように消えていた。白い髪の男の足元から黒い光が湧き上がり、その姿を包み込む。
「では、また。……次は、あの子と一緒に参ります」
黒い光が消えたあとには、気を失った黒ローブたちと、夕暮れの大通りだけが残っていた。
◇
「……逃げられたわね」
イリスが、剣を収めながら言った。
「全員じゃない」
アルトが、足を鎖で絡め取った黒ローブを引きずってきた。最初に「繋ぎ手だ」と叫んだ男だった。逃げようともがいていたが、ガロンが目の前に大剣を突き立てると、ぴたりと静かになった。
「話は、あとでたっぷり聞かせてもらう」
ガロンは、大剣の柄から手を離して、自分の手を見下ろした。握って、開いて、また握る。
「……戻ってやがる」
「繋いでる間だけかもしれないぞ」
「それでもいい」
ガロンは、ぶっきらぼうに言って、それからセレスの頭を大きな手で乱暴に撫でた。
「助かった」
「……やめろ、髪が崩れる」
口ではそう言いながら、セレスは手を払いのけなかった。
右手の指先には、まだ、さっきの小さな熱の名残があった。ほんの少しだけ。それでも、何も感じなかった四日間より、ずっとましだった。
(切れても、結び直せる)
リンが断ったものも、いつか、きっと。
セレスは、塔の一番高い窓を見上げた。そこにはもう、誰の姿もなかった。
第百十九話「結び直す」をお読みいただき、ありがとうございます。
断たれた糸は、結び直せる。百十六話でリンに言われた「糸は、切れるよ」への、セレスなりの答えでした。そして、白い仮面の男が、塔の窓から。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




