第百十八話 壁の線
旧王都の跡に入ります。
翌朝、一行は旧王都の跡の城門をくぐった。
くぐった、というより、門だったものの隙間を抜けた、のほうが近い。分厚い城壁は途中で崩れ落ち、扉はとうの昔に朽ちてなくなっていた。門の上に刻まれていたらしい紋章は、風雨に削られて、もう何の形だったのかも分からない。
「……本当に、誰もいないんですね」
ミュゼが、声を落として言った。
石畳の大通りには、膝の高さまで草が伸びていた。左右に並ぶ建物は屋根が抜け、窓だけが黒い穴になってこちらを見下ろしている。百年前には、ここを王族の馬車が通り、市が立ち、人で溢れていたはずだった。今は、鳥の声と風の音しか聞こえない。
ガロンは、荷台から下ろした大剣を背負っていた。指はまだ少しぎこちないが、握れないほどではなくなっている。ただ、振れるかどうかは本人にも分からないらしく、時々、柄を握り直しては難しい顔をしていた。
セレスの右手は、相変わらずだった。
(……左で振るしかないな)
剣を左の腰に差し替えてある。慣れない重さが、歩くたびに少しだけ体を傾けた。
「誰もいない、ってわけじゃなさそうよ」
レイフィアが、足を止めた。視線の先、崩れた家の陰で、何かがさっと引っ込んだ。
「出てこい。何もしない」
アルトが声をかけると、しばらくして、一人の老人がおそるおそる顔を出した。背中の曲がった、白い髭の男だった。腰には、錆びた鉄の棒と、膨らんだ麻袋を下げている。
「……冒険者さんかね。こんなところに、珍しい」
「あんたは」
「ドルンだ。ここで、拾い物をして暮らしとる。古い金物や、たまに出てくる昔の銭なんかをな」
老人は、麻袋から一枚の硬貨を取り出してみせた。くすんだ銀色で、見たことのない横顔の刻印が入っている。
「旧王国の銭だよ。今じゃ使えんが、物好きな商人が高く買っていく」
レイフィアの眉が、わずかに動いた。北の町で、旅商人が支払いに使っていた古い貨幣。あれと同じ種類のものだった。
「その物好きな商人に、最近会ったか」
「いいや、ここ半年は来とらんね」
ドルンは硬貨を袋に戻すと、声を落とした。
「それより、あんたたち。あの塔へ行くつもりなら、やめておいたほうがいい」
老人が顎で示したのは、大通りの突き当たりにそびえる、ひときわ高い塔だった。昨日の夕方、青白い光が瞬いていた塔だ。
「夜になると、あそこに明かりがつく。黒い服の連中が出入りしとる。わしは近づかんようにしとるが……七日ほど前の晩には、女の子の泣き声みたいなのが聞こえた」
セレスの足が、勝手に前へ出かけた。アルトが、その肩を軽く押さえた。
「今は、いるのか」
「分からん。三日前の晩から、連中を見かけなくなった。……ただ、昨日の夕方に一度だけ、久しぶりに光ったがね」
昨日の夕方。一行が丘の上から、あの塔を見た時だ。
(……見せられた、のか)
来い、と言われているような気がした。
◇
塔の入り口には、見張りの姿はなかった。
イリスが先頭に立ち、レイフィアが後ろを固める。崩れかけた螺旋階段を上っていくと、三階のあたりで、急に空気が冷たくなった。
「……この感じ」
ミュゼが、自分の腕を抱いた。
突き当たりに、扉があった。北の塔の穀物庫と同じ、分厚い鉄の扉だった。鍵は、外から開けられたまま、錠前ごと床に転がっている。
セレスは、扉を押し開けた。
石の部屋だった。壁一面に、あの細かな紋様がびっしりと刻まれている。今は光っていない。ただ、触れるとまだかすかに冷たく、つい最近まで何かが満ちていたのが分かった。
部屋の隅に、藁の寝床があった。誰かがそこで丸くなって眠っていたように、真ん中が浅く窪んでいる。
「……リンは、ここにいたんだな」
アルトが、静かに言った。
セレスは、寝床の脇の壁に目を留めた。
紋様の隙間に、細い傷が刻まれていた。石の欠片か何かで、何度も何度もこすって付けたような線だった。一本、二本、三本。縦の線が、壁の低いところに、きれいに並んでいる。
数えるまでもなかった。
(……あいつも、数えてたのか)
アルトの紙と、同じだった。並んだ線の端から、一本ずつ、横に短い傷が引かれている。消された日の印だ。消されていない線は、まだ四十本あまり残っていた。
アルトが、黙って懐から紙を取り出した。壁の線の隣にかざして、端から指でなぞっていく。途中で、その指が止まった。
「……六本、少ない」
「え?」
「あいつの線のほうが、俺の紙より六本多く消されてる。日付は、ここに来た日から数えて合ってるはずなのにな」
アルトの声は、いつもより少しだけかすれていた。
「あいつは、自分の中の残りを数えてたんだ。……断つたびに、一本ずつ早く消えていく分まで」
誰も、何も言えなかった。紙の上の数字より、この壁の傷のほうが正しい。そういうことだった。
セレスは、壁の前にしゃがみ込んだ。
一番最後に引かれた横傷は、他よりも深かった。ロッサ村の夜のあとに引いたものだろうか。石が欠けるほど強く、何度もこすった跡がある。その隣の、まだ消されていない線の下に、小さく何かが刻まれていた。
文字だった。たどたどしくて、少し傾いている。
――まだ。
それだけだった。
「……まだ、か」
イリスが、後ろからのぞき込んで、小さくつぶやいた。
まだ、終わってない。まだ、私でいる。まだ、待ってる。どれとも取れたし、どれでもないのかもしれなかった。ただ、あいつがこの冷たい部屋で、一人で日を数えながら、それを刻んだことだけは確かだった。
セレスは、何も感じない右手の指先で、その二文字に触れた。
石の冷たさも、傷のざらつきも、分からない。それでも、指を離せなかった。
(ああ。まだだ)
まだ、間に合う。
◇
塔を出たのは、日が傾きかけた頃だった。
上の階も見て回ったが、崩れた床と鳥の巣があるだけだった。部屋には、他に手がかりらしいものは残っていなかった。藁の寝床と、壁の線と、二文字だけだ。それでも、来た意味はあった、とセレスは思った。
「次は、どこへ向かったのかよね」
レイフィアが、塔を見上げながら言った。
「ドルンさんに、もう一度聞いてみましょうか。黒い服の人たちが、どっちへ出ていったか」
ミュゼの提案に、アルトが頷きかけた時だった。
セレスの背負い袋の中で、木箱が、ことりと揺れた。
ちりん。
全員の足が止まった。
ちりん、と、もう一度。今度は、大通りの両側の廃墟から、こつ、こつ、と石を踏む足音が重なった。崩れた窓の奥。屋根の抜けた二階。草むらの陰。黒い影が、ひとつ、またひとつと立ち上がる。
黒いローブの集団だった。十人、いや、もっといる。塔を出るのを、ずっと待っていたらしい。
「……囲まれてるわね」
イリスが剣を抜いた。ガロンが大剣の柄を握り、指の具合を確かめるように一度だけ握り直す。
黒ローブの一人が、仲間に向かって声を張り上げた。
「標的を確認! 繋ぎ手だ!」
繋ぎ手。
聞いたことのない呼び名だった。
「繋ぎ手には触れるな! 手首の紋様に近づくな! 距離を取って囲め、あれの相手は、こちらでするな!」
(……繋ぎ手、か)
白銀の本物でも、無色でもない。斬らずの銀でもなかった。この連中は、自分のことを、そう呼ぶことに決めたらしい。触れれば繋がれる。だから、触れるな。
ずいぶん、警戒されるようになったものだ。
セレスは、左手で剣を抜いた。
「……あれの相手はこちらでするな、って言ったな」
アルトが、低くつぶやいた。
「なら、誰が相手をする」
答えは、すぐに分かった。
大通りの奥、塔の影の中から、もうひとつ足音が近づいてきた。急ぐでもなく、迷うでもない、落ち着いた足音だった。
黒ローブたちが、さっと左右に道を空けた。
夕日を受けて、白い髪が光った。
「また、お会いしましたね。ロッサ村では、木の下からご挨拶もできませんでしたが」
白い髪の男は、穏やかに微笑んだ。
「繋ぎ手の相手は、受ける口を持たない者がする。……そういう決まりになりました」
第百十八話「壁の線」をお読みいただき、ありがとうございます。
旧王都の跡で見つけたのは、リンが自分で数えていた日の線でした。そして、敵がセレスにつけた新しい呼び名。「繋ぎ手」。次回、受ける口を持たない男と。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




