第百十七話 選ばなかった体
旧王都への道中です。今日の料理番は、いつもと違います。
ロッサ村を発つ朝、ベルクが村の入り口まで見送りに出てきた。
「右手の指先が、ほんの少しだけ温かい気がするんだ」
ベルクは、自分の手を朝日にかざしてみせた。握っても、まだ何も乗らない。それでも、昨日までとは違う顔をしていた。
「気のせいかもしれん。だが、あの子が『何日かで戻る』って言ったんなら、俺たちのも、いつかは戻るのかもしれないと思えてな」
「……戻るさ」
セレスが言うと、ベルクは少し笑って、ガロンの肩を軽く叩いた。
「あんたも、早く治せよ。飯、うまかった」
ガロンは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
◇
旧王都の跡までは、東の街道をあと三日。
ガロンの大剣は、村で借りた荷馬車の荷台に積まれていた。本人は、その横を黙って歩いている。腕は動く。だが、重いものを握ろうとすると、指がすぐにほどけてしまう。大剣どころか、背負い袋の紐を締めるのにもミュゼの手を借りていた。
「……情けねえ」
今朝から、もう三度目だった。
「情けなくないです。四度目を言ったら、私、怒りますからね」
ミュゼが、ガロンの背負い袋を担ぎ直しながら言った。ガロンは何か言い返しかけて、口を閉じた。
セレスも、似たようなものだった。
右手の指先は、まだ何も感じない。剣は左手でも振れるし、握るだけなら右でもできる。けれど、柄の感触が分からないまま振るう剣は、どこか自分のものではないみたいで落ち着かなかった。
(……二人して、手が使えないってのもな)
ガロンと目が合うと、ガロンは気まずそうに顔を背けた。似たようなことを考えていたらしい。
◇
問題が起きたのは、その日の夕方、街道脇で野営の支度を始めた時だった。
「……で、誰が作るの?」
レイフィアが、鍋と食材の袋を前にして首を傾げた。
全員の視線が、自然とガロンに集まる。ガロンは、自分の手を見下ろした。包丁を握ろうとして、指がほどける。芋が、ころりと地面に転がった。
「……無理だな」
沈黙が落ちた。
ミュゼは、さっきから小鍋で薬草を煮出していた。治癒が効かないなら、せめて温めた湿布でガロンの腕をほぐしたいのだという。レイフィアは「食べられればいいでしょう」という顔をしているし、アルトは干し肉を齧れば済むと思っている。
「私がやるわ」
イリスが、鍋の前に進み出た。
「案外、得意なのよ」
「この前、塩を入れすぎてましたよね」
薬草の鍋をかき混ぜながら、ミュゼがさらりと言った。
「……あれは、鍋が小さかったのよ」
「今日の鍋も小さいぞ」
ガロンにまで言われて、イリスは黙って一歩下がった。耳が、少し赤い。
ガロンは深いため息をついてから、なぜかセレスのほうを見た。
「お前がやれ」
「俺?」
「一番、手際がよさそうだ。……俺が横で言う。その通りに動け」
セレスは、自分の右手を見た。何も感じない指で、包丁を握る。
「……指、切っても分からないぞ」
「だから、ゆっくりやれ。急ぐ料理じゃねえ」
それから一刻、野営地にはガロンの低い声が途切れなく響いた。
「芋は同じ大きさに切れ。火の通りが揃わねえ」
「そんな細かく――」
「細かくていい。……違う、その持ち方だと指ごといくぞ。左の指は丸めろ。猫の手だ」
「猫の手……」
「塩はまだだ。肉から先に焼け。焦げ目がついてから水を入れる。……おい、鍋を揺するな、落ち着け」
ミュゼが、口元を押さえて肩を震わせている。レイフィアは堂々と笑っていた。
セレスは、半分むくれながらも、言われた通りに手を動かした。何も感じない指先を、目で確かめながら。芋を切り、肉を焼き、干した香草を揉んで散らす。鍋から、だんだんとそれらしい匂いが立ちのぼってきた。
(……案外、なんとかなるもんだな)
手の感覚がなくても、ガロンの声があれば、手は動いた。
出来上がった煮込みは、いつもの味には遠く及ばなかった。芋は少し煮崩れていたし、塩もやや濃い。それでも、全員が黙って二杯目をよそった。
「……悪くねえ」
ガロンが、ぼそりと言った。まだうまく握れない手でスプーンを持って、何度か取り落としかけながら、それでも最後まで自分で食べた。
「昔、な」
鍋の底をさらいながら、ガロンがぽつりと言った。
「こうやって、横で口だけ出してたことがある。……手を出したら怒られてな。自分でやりたいんだって」
誰に、とは言わなかった。セレスも、聞かなかった。
ガロンはそれ以上何も話さずに、空になった鍋を見つめていた。焚き火の明かりの中で、その横顔が、ほんの一瞬だけ、戦場では見せたことのない顔になった。
◇
夜更け、セレスは一人で小川へ降りた。
鍋を洗うついでに、顔も洗いたかった。水は冷たく、月の光を細かく砕いている。鍋を水に沈めると、指先に何も感じないまま、手首から先だけが冷たさに包まれた。
水面に、自分の顔が映っていた。
白銀の長い髪。左右で色の違う目。眠たげな目元。少し前までは、鏡を見るたびに知らない誰かの顔だと思っていた。今でも、完全に慣れたとは言えない。
(リンの体は、作られたんだよな)
塔の穀物庫で見た、痩せた肩。黒い線の走る腕。器、とあの男たちは呼んでいた。誰かが作って、誰かが満たすための体。リンは、それを自分で選んだわけじゃない。
なら、自分はどうだ。
セレスは、水面の顔をじっと見た。
この体も、選んだものじゃない。女神が名簿を間違えて、気づいたらこの姿で目を覚ましていた。剣の勘は前の自分の名残で、紋様と腕輪は女神からの借り物だ。前の自分の手は、もっと大きくて、武骨だった。
そこまで考えた時、胸の奥で何かが小さく鳴った。
昨夜、リンの手の向こうに見えた、白くて細い光。自分の紋様と、根っこのところで同じだと感じたもの。あれは、偶然なんだろうか。
「冷えるわよ、こんなところで」
背後から、声がした。イリスだった。外套を肩に掛けたまま、川辺の石に腰を下ろす。
「……鍋を洗ってただけだ」
「その割には、あんた、ずいぶん長く水面を見てたじゃない」
イリスは、しばらく黙って川を眺めていた。それから、ぽつりと言った。
「前に、聞いたわよね。その体のこと、どう思ってるのかって」
「ああ。……まだ慣れてない、って答えた」
「今は?」
セレスは、濡れた右手を水から上げた。何も感じない指先から、しずくが落ちていく。
「分からない。けど」
言葉を探して、ゆっくりと続けた。
「今日、何も感じない手で、芋を切った。ガロンに言われるまま、指を丸めて、火加減を見て。……そしたら、ちゃんと飯ができた。手の感覚がなくても、動かしてるのは、俺だった」
イリスは、黙って聞いていた。
「リンの体は、誰かが作った。俺のは、女神が間違えて寄越した。どっちも、自分で選んだもんじゃない。……でも、あいつが塔で俺の手を断ったのは、あいつの手だった。ロッサ村で、ガロンの前で振り返ったのも」
水面の月が、少し揺れた。
「体を選べなくても、その手で何をするかは、選べるのかもしれない。……まだ、よく分からないけどな」
イリスは、しばらく何も言わなかった。それから、小さく息を吐いた。
「私も、体は選べなかったわ。弱く生まれて、無色って言われて」
「……ああ」
「でも、剣を握ったのは私の手よ。あの人が何を言ってくれても、振ったのは私。……それだけは、誰にも取られないの」
イリスは立ち上がって、外套の裾を払った。
「答えが出ないなら、今はそれでいいんじゃない。ほら、鍋。私が持つわ」
「……塩は量れないのに、鍋は持てるのか」
「うるさいわね」
イリスは鍋をひったくると、先に土手を上がっていった。
◇
二日目の昼、ガロンが背負い袋の紐を自分で締めた。
「……お」
本人が一番驚いた顔をしていた。指はまだぎこちない。けれど、ほどけずに、しっかりと結び目ができていた。
「ガロンさん!」
「騒ぐな。紐くらいでよ」
そう言いながら、ガロンの口の端は少しだけ上がっていた。リンの言った通りだった。深くは、切っていなかったのだ。
セレスは、自分の右手を握ってみた。こちらは、まだ何も感じない。塔の穀物庫と、ロッサ村の夜。二度も断たれた指先は、ガロンの腕よりも戻りが遅いらしい。
(二度目は、深く切ったのか)
リンは、ガロンには手加減をした。自分には、しなかった。それが何を意味しているのか、セレスにはまだ分からなかった。
三日目の夕方、街道の先の丘を越えたところで、アルトが足を止めた。
「……見えたぞ」
夕焼けの向こうに、崩れかけた塔の影がいくつも並んでいた。百年前に捨てられた都。ひび割れた城壁が、地平線に沿って長く伸びている。
その中のひとつの塔の上で、かすかに、青白い光が瞬いた。
塔の穀物庫の壁と、同じ色だった。
第百十七話「選ばなかった体」をお読みいただき、ありがとうございます。
料理番がセレスに交代する、少し賑やかな野営回でした。そして、自分で選ばなかった体の話。答えはまだ出ていませんが、セレスは少しだけ前に進みました。次回、旧王都の跡へ。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




