第百十六話 断つ者
月の下で、リンと向き合います。
麦畑を渡る夜風が、リンの伸びた髪を揺らしていた。
セレスは、納屋の前から一歩も動けずにいた。すぐ後ろに仲間たちの気配がある。イリスが剣を抜く音。ガロンが大剣を担ぎ直す音。ミュゼの杖の先に、小さな光が灯った。
「……リン。話をしに来たんじゃ、ないのか」
「話すことなんて、もうないよ」
リンの声は、塔の穀物庫で聞いた時よりずっと平らだった。震えてもいないし、泣きそうでもない。
麦畑の向こう、街道脇の大きな木の下に、白い髪の男が立っているのが見えた。腕を組んで、こちらを眺めている。手を出すつもりはないらしい。ただ見ているだけだ。ベルクたちが襲われた夕方と、同じように。
(見物かよ)
セレスの奥歯が、ぎり、と鳴った。
「あの人に、言われてきたの。あなたたちの力を、断ってこいって」
リンは、右手を胸の前で軽く握った。
「……ごめんね。でも、断つね」
次の瞬間、リンの姿が消えた。
違う。消えたんじゃない。低く、速く、麦の穂の間を滑るように踏み込んでくる。狙いは、セレスではなかった。
「ミュゼ!」
イリスが叫ぶより早く、ガロンが動いていた。ミュゼの前へ、大きな体ごと割り込む。大剣を盾のように構えて、正面からリンを受け止めようとした。
リンの右手が、ガロンの大剣に触れた。
ほんの、指先だけで。
「――っ」
ガロンの膝が、がくりと折れた。
大剣が、手の中から滑り落ちる。重い刃が地面に突き刺さって、鈍い音を立てた。ガロンは自分の両手を見下ろしていた。握ろうとしているのに、指がうまく曲がらないらしい。
「……なんだ、これ。腕に、力が、入らねえ」
「ガロンさん!」
「来るな、ミュゼ! 手を伸ばすな!」
ガロンが怒鳴った。ミュゼの手が、宙で止まる。
ロッサ村の離れで聞いた話が、全員の頭をよぎったのだろう。手を伸ばした順に、断たれる。ガロンはミュゼを庇おうとして、真っ先に前へ出た。だから、真っ先に断たれたのだ。
イリスが、膝をついたガロンの前へ踏み出した。倒れた仲間を背に庇う、いつもの動きだった。
「次は、あなた」
リンが、イリスのほうへ顔を向けた。
イリスは、そこで足を止めた。剣を構えたまま、じり、と半歩下がる。金ランクの剣士が、相手の間合いから下がるところを、セレスは初めて見た。
「……やりにくいわね」
イリスが、低くつぶやいた。
「斬りに行けば、それがもう手を伸ばしたことになる。守りに入っても、あの子が触れれば終わり。……あんた、どうするの」
聞かれるまでもなかった。
セレスは、白銀の紋様に触れた。熱が走る。仲間たちの力が、意識の奥でひとつに繋がっていく。イリスの鋭さ。レイフィアの細い光。ミュゼの温かな優しさ。膝をついたガロンの中にも、まだ温かいものが残っている。塔の前で二十人を黙らせた時と、同じ感覚だった。
(繋いで、止める。一瞬だけでいい。あいつの足を止めて――)
「知ってる、それ」
リンが、こちらを見た。
右手が、ゆっくりと握られる。
ぷつり。
音がしたわけではなかった。だが、セレスには確かに聞こえた気がした。
繋がっていた糸が、一本残らず断ち切られた。イリスの鋭さも、レイフィアの光も、ミュゼの温もりも、全部が一度に遠くなる。意識の奥にあったはずの温かい網が、刃物で払われたみたいにばらばらにほどけて、夜の中へ消えていった。
「……っ、は」
膝から力が抜けかけて、セレスは歯を食いしばった。
右手の指先に戻りかけていた感覚が、また、すとんと抜け落ちる。塔の穀物庫の時と同じだ。いや、あの時よりもずっと深い。
(全部、まとめて……)
「繋ぐ力は、糸がいっぱいあるから強いんでしょう」
リンが、静かに言った。
「でも、糸は、切れるよ。一本ずつでも、全部でも」
レイフィアが、細剣を下ろしたまま息を詰めていた。アルトは一歩も動かず、リンの足元だけを見ている。誰も、次に何をすればいいのか分からなかった。
その時、セレスは気づいた。
リンの首筋を這う黒い線が、さっきより伸びている。ガロンを断った時に、ひとつ。セレスの糸を断った今、もうひとつ。黒い線はじわりと上へ進み、耳の下のあたりにまで届こうとしていた。
断つたびに、満ちる。
(こいつ、自分を削りながら戦ってるのか)
王都で、アルトが言っていた。向こうは急がせている、と。白い髪の男が木の下から動かないのは、手を出す必要がないからだ。リンが断てば断つほど、期日は勝手に近づいてくる。
戦えば戦うほど、リンがいなくなる。
セレスは、握っていた剣を、足元の地面に突き立てた。
「……セレス?」
イリスの声が、背中に届いた。
セレスは剣から手を離して、一歩前へ出た。両手は下ろしたままにした。差し出しもしない。構えもしない。
「来い、とは言わない」
リンの眉が、かすかに動いた。
「手も、伸ばさない。伸ばしたら、お前はまた切るんだろ。だったら、伸ばさない」
麦畑を、風が渡っていった。
「塔で、お前が言ったんだ。今度は、自分が手を伸ばせるところまで来て、って。……だから、ここに立ってる。お前の手が届くところに。あとは、お前が決めろ」
リンは、しばらく何も言わなかった。
握られていた右手が、ほんの少しだけ、ゆるんだように見えた。
その一瞬、セレスの紋様がかすかに疼いた。断たれて何も感じないはずの指先の、さらに奥。リンの握った手の向こうから、何かが微かに流れてくる。黒い線の下に隠れた、白くて細い光だった。
(……この感じ、知ってる)
地下の遺跡の奥で見た、原初の紋様核の白い光に似ていた。そして、自分の腕輪の下で脈打つ紋様とも。
同じだ、と思った。色も、形も違うのに、根っこのところが。
(俺とこいつは――)
ちりん。
夜の奥で、鈴が鳴った。
納屋に置いてきた木箱の中からも、同じ音が小さく重なる。リンの肩が、びくりと跳ねた。ゆるみかけていた右手が、また固く握られる。
街道の木の下で、白い髪の男が腕をほどいていた。その向こう、もっと東の暗がりのどこかで、誰かが鈴を鳴らしている。
「……呼ばれてる」
リンが、小さく言った。平らだった声が、ほんの少しだけ揺れていた。
「あの人が来る時は、いつも鈴が鳴る。前に、言ったよね」
「リン」
「今日は、ここまで」
リンは、セレスから目を逸らした。それから、背を向ける前に一度だけ、地面に膝をついたままのガロンを見た。
「……その人の力、たぶん、何日かで戻るよ。深くは、切ってないから」
それだけ言うと、リンは麦畑の中を歩き去っていった。一度も振り返らなかった。白い髪の男がその肩に手を置き、足元から黒い光が湧き上がる。
光が消えたあとには、月に照らされた街道だけが残っていた。
◇
「……情けねえ」
ガロンが、地面に座り込んだまま吐き捨てた。両手はまだ、指先がかすかに震えている。
「真っ先に前に出て、真っ先にやられて。ミュゼを庇うどころか、足手まといじゃねえか」
「そんなことないです!」
ミュゼが、ガロンの前にしゃがみ込んだ。治癒の光は灯さなかった。灯しても意味がないと、ベルクたちの件で分かっている。だから、ただガロンの震える手を、両手でぎゅっと包んだ。
「ガロンさんが前に出てくれなかったら、私が断たれてました。……私の治癒がなくなってたら、次に誰かが怪我をした時、誰も治せなかった」
ガロンは何か言い返そうとして、やめた。ミュゼの手の中で、太い指がゆっくりと握り返そうとして、うまくいかずに、また開いた。
「……それに、リンさん、言ってました。深くは切ってないって」
「気休めだろ」
「気休めでも、リンさんが言ったんです」
ミュゼは、まっすぐにガロンを見た。
「あの子、わざわざ言いに振り返ったんですよ」
セレスは、地面から剣を抜いた。何も感じない右手で、柄を握る。
(また、何も感じなくなったな)
指先には、もう何も残っていなかった。けれど、そのさらに奥には、さっき一瞬だけ流れてきたものの名残が、まだかすかに引っかかっていた。黒い線の下の、白くて細い光。
「セレス」
アルトが、隣に立った。
「最後、何か感じたのか。顔色が変わった」
「……分からない」
セレスは、リンが消えた街道の先を見つめた。
「分からないけど、あいつの力の奥に、俺と同じものがあった気がする」
アルトは、何も言わなかった。ただ懐から紙を取り出して、月明かりにかざした。六十一本の線。その端の一本を、炭で細く消していく。
「急ぐぞ。……向こうが急いでるなら、こっちはもっと急ぐしかない」
夜風が、麦畑をざわざわと鳴らしていた。
第百十六話「断つ者」をお読みいただき、ありがとうございます。
リンの「断つ」を、初めて真正面から受けました。繋ぐ力は、糸が多いほど強い。けれど、糸は切れる。そして最後に、セレスが感じたもの。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




