第百十五話 伸ばした手から
東の街道、三日目の村です。
王都を発って三日目の夕方、一行はロッサ村に着いた。
街道沿いに麦畑が広がる、どこにでもありそうな小さな村だった。ただ、村の入り口に立っていた見張りの若者は、一行の姿を見るなり槍を握り直した。銀髪の小柄な冒険者と聞いて、ようやく肩の力を抜く。
「王都のギルドから、話は来てます。……あの人たちなら、村長の家の離れにいます」
案内された離れには、四人の冒険者がいた。
怪我人の部屋だと思って入ったのに、包帯を巻いている者は一人もいない。剣士らしい大柄な男は壁にもたれて座り、魔術師の青年は窓の外をぼんやり眺めていた。治癒師の女は膝を抱え、斥候らしい小柄な男は、手の中の短剣をただ見つめている。
誰も、こちらを見なかった。四人とも、ひどく疲れた顔をしていた。
「銀ランクのベルクだ。……あんたが、王都の『銀の無色』か」
剣士の男が、ようやく口を開いた。
「そう呼ばれてるらしい」
「そうか。上の連中も、ずいぶん早く手を回したもんだ」
ベルクは、自分の右手を持ち上げてみせた。太い指が、握って、開いて、また握る。
「見ての通り、どこも悪くない。剣も振れる。ただ、振っても何も乗らないんだ。身体強化も、剣気も、襲われる前までは息をするみたいに出てたものが、全部どこかで止まっちまう」
「私もです」
治癒師の女が、膝を抱えたまま言った。
「治癒の光が、手のひらまで来ないんです。胸の奥にあるのは分かるのに、そこから先の道が、途中でぷつりと切れてて」
ミュゼが、小さく息を呑んだ。
「あの、試してみてもいいですか。私の治癒で、何か変わるかもしれないので」
「どうぞ。この何日か、村の薬師も神官も試してくれたけどね」
ミュゼは女の手を取って、治癒の光を灯した。淡い光が、女の腕を包んでいく。けれど、その光は肌の上を滑るだけで、どこにも染み込んでいかなかった。
「……傷が、ないんです。治すところが、どこにもない」
ミュゼの声が、少し震えていた。
(傷じゃないから、治らない。――俺の指と、同じか)
セレスは、自分の右手の指先を擦り合わせた。王都を出てから少しずつ戻ってきた感覚は、今ようやく七割といったところだ。
「俺にも、見せてくれ」
セレスはベルクの前に膝をついて、その手首に触れた。
紋様が、かすかに熱を帯びる。ベルクの中から、何かが流れてこようとしているのが分かった。塔の前で白い髪の男に触れた時のような、底のない冷たさとは違う。この男は、ちゃんと受け取る口を持っている。
ただ、その奥で道が切れていた。
流れてきたものが、ある場所でふっと途切れて、その先に届かない。切り口はひどく滑らかで、ささくれひとつ残っていなかった。糸を刃物で断ったような、迷いのない切り方だった。
(……あいつだ)
確かめるまでもなかった。塔の穀物庫で、自分の手から抜け落ちていったものと、まったく同じ手触りだった。
「どうだ」
「切られてる。俺にも、つなぎ直すのは無理だ」
正直に言うと、ベルクは乾いた声で笑った。
「そうか。……まあ、そうだろうな」
◇
四人が襲われたのは、村から半日ほど東の街道だった。
「王都へ戻る途中だった。夕暮れ時で、道の真ん中に女の子が一人で座り込んでた。十二、三の、痩せた子だ。灰色の長い髪をしてた」
ベルクは、壁を見つめたまま話した。
「迷子だと思った。近くに親もいない。だから、俺が声をかけたんだ。大丈夫か、立てるかって。……それで、手を差し出した」
セレスの喉が、ひとりでに鳴った。
「あの子は、しばらく俺の手を見てた。泣きそうな顔でな。それから、ごめんなさい、って言ったんだ。小さい声で」
ベルクの右手が、膝の上で握られた。
「次の瞬間には、俺の手から、全部抜け落ちてた。それから、あの子は一人ずつ、順番に回っていった。治癒師が駆け寄ってきたら治癒師を。魔術師が杖を向けたら魔術師を。……一番最後まで残ったのは、あいつだ」
ベルクが顎で示したのは、斥候の小柄な男だった。男は短剣から目を離さないまま、ぼそりと言った。
「俺は、何もしなかった。怖くて、突っ立ってただけだ。だから最後まで残った」
部屋の中が、しんと静まった。
「……手を伸ばした順、か」
アルトが、低くつぶやいた。
セレスは答えなかった。答えられなかった、というほうが近い。
迷子に差し出した手。駆け寄った治癒師の手。仲間を守ろうと向けた杖。あいつは、自分に向かって伸びてくるものから順に、断っていったのだ。
(伸ばしてくる手を、先に切る)
塔の穀物庫でも、そうだった。セレスが差し出した手を、あいつは最後まで取らなかった。あと指一本のところで握りしめて、その手でセレスの力を断った。
あいつが、そうやって生きてきたのだとしたら。誰かが手を伸ばしてくるたびに、その手が自分に届く前に、自分から断ってきたのだとしたら。
セレスの力は、相手が手を伸ばさないと届かない。女神はそう言った。だが、あいつは伸ばさないどころか、伸びてきた手のほうを切ってしまう。
(……届くわけ、ないじゃないか)
「その子の、そばに男はいたか。白い髪の」
イリスが、静かに尋ねた。
「いた。少し離れた木の下に。最初から最後まで、ただ見てた。終わったあとで、あの子の肩に手を置いて、よくできました、って言ってたよ」
イリスの手が、剣の柄の上で固くなった。
ガロンは何も言わずに立ち上がって、離れの隅の小さな竈に火を入れ始めた。村長の家から借りてきたらしい鍋と、背負い袋から干し肉と芋を出していく。
「……何してんだ、あんた」
ベルクが、呆れたように言った。
「飯だ。力が出なくても、腹は減るだろう」
ガロンは、振り返りもせずに芋の皮を剥き始めた。
「力が戻るまで何日かかるか分からねえなら、その間、食ってなきゃ持たねえ。……食える時に食え。話はそれからだ」
ベルクはしばらくガロンの背中を見ていたが、やがて、ふっと息を吐いて笑った。四人の中で、初めて笑った顔だった。
◇
その夜、一行は離れの隣の納屋を借りて休むことになった。
セレスは、藁の上で木箱を膝に乗せていた。王都で鑑定士から受け取った、あの黒い鈴の箱だ。封じの術式が刻まれた蓋は、ここまでの三日間、一度も鳴らなかった。
「眠れないの?」
レイフィアが、隣に腰を下ろした。
「……少し、考えてた」
「あの子のこと?」
「あいつは、なんで、手を伸ばしてくる奴から切るんだろうな」
レイフィアは、しばらく黙っていた。それから、細剣の鞘を膝の上に横たえた。
「手を伸ばされるのが、いちばん怖いからじゃないかしら」
「怖い?」
「伸ばされた手を取ったら、今度は自分が、その手を失うのが怖くなるもの。……最初から取らなければ、失くすこともないわ」
レイフィアの声は、どこか自分に言い聞かせるような響きをしていた。セレスは、何も聞き返さなかった。
(取らなければ、失くさない、か)
それは、ずっと前の自分にも、少しだけ覚えのある考え方だった。この体で目を覚ましたばかりの頃、誰かと組むのが面倒だと思っていた。面倒だと思うことにしていた、のほうが正しいのかもしれない。
その時だった。
膝の上の木箱が、ことり、と小さく揺れた。
ちりん。
封じられているはずの箱の中から、澄んだ音がした。
納屋の中で、眠っていたはずの仲間たちが一斉に身を起こした。イリスはもう剣を手にしている。ガロンが大剣の柄を掴み、ミュゼが杖を引き寄せた。
「……鳴ったな」
アルトが、低く言った。
ちりん、と、もう一度。今度は箱の中からだけではなかった。納屋の外、村の東の外れから、同じ音が重なって聞こえてくる。
セレスは箱を置いて、納屋の戸を押し開けた。
月の明るい夜だった。麦畑の向こう、街道へ続く道の真ん中に、小さな人影がひとつ立っていた。
痩せた肩。伸びた髪。左腕を這い上がる黒い線は、塔で見た時よりもさらに伸びて、首筋の近くにまで届いていた。
「……リン」
呼ぶと、人影がゆっくりと顔を上げた。
月明かりの下で見たその顔は、泣いてはいなかった。塔の穀物庫で見た、今にも崩れそうな笑顔でもなかった。
ただ静かに、セレスを見ていた。
「来ないで、って言ったよ」
リンの右手が、ゆっくりと持ち上がる。
差し出すためではなかった。何かを断つ前の、あの静かな握り方だった。
第百十五話「伸ばした手から」をお読みいただき、ありがとうございます。
リンがなぜ、差し伸べられた手から順に断っていくのか。セレスの力がリンに届かない理由が、少しだけ見えてきました。そして、月の下に立っていたのは。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




