第百十四話 鳴った鈴
王都に戻ってきました。預けたままだった、あの鈴の話です。
塔を発って四日目の昼、一行は王都の北門をくぐった。
石畳の照り返しも、露店から漂う焼き菓子の匂いも、ずいぶん懐かしく感じる。北の国境で過ごした日々が、それだけ長かったのだろう。ガロンが真っ先に肉串の屋台へ向かいかけて、アルトに襟首をつかまれていた。
「先にギルドだ。飯はそのあとでいい」
「一本くらい、いいだろうが」
「一本で済んだことがあるか?」
言い返せないガロンを横目に、セレスは大通りを歩き出した。
異変に気づいたのは、ギルドの手前の広場に差しかかった時だった。すれ違う人の視線が、妙にこちらへ引っかかる。荷車を引いていた男が振り返り、井戸端の女たちが肘でつつき合った。
「ほら、あの子よ。銀の無色」
「北の塔の話の? あんなに小さいの」
(……銀の無色?)
聞き慣れた「無色」に、ランクの「銀」がくっついている。褒めているのか、からかっているのか、よく分からない呼び方だった。
「宿場じゃ『斬らずの銀』で、王都じゃ『銀の無色』ですか。セレスさん、呼び名が増えていきますね」
ミュゼが、なぜか嬉しそうに言う。
「増えなくていい」
「無色って言葉が残ってるだけ、王都らしいわね」
レイフィアが肩をすくめた。
「ここの人たちは、あんたが水晶の前で何も映らなかった日を覚えてるのよ。それが銀ランクになって、塔の隊長を捕まえて帰ってきた。どう呼べばいいか、まだ決めかねてるんでしょう」
セレスは、少しだけ歩く速さを上げた。陰口だった言葉が、同じ口から別の響きで出てくる。それが妙にくすぐったくて、顔を見られたくなかった。
◇
ギルドの奥の小部屋には、前と同じ上役の男が待っていた。机の上には、見覚えのない封書が一通置かれている。
「塔の副官から、早馬で先に届いた。隊長の件も、監視隊の不正も、君たちのことも、あらかた書いてある」
上役は封書を指で叩いてから、アルトを見た。
「ギルド証の件は、こちらで預かっておく。何もなかったことにはできんが、取り上げる理由もない。そういう扱いだ」
「助かる」
「それと、例の羽だ」
上役は、引き出しから封筒を出した。前に街道で拾った、あの白い羽が入っている。
「北の国境監視隊が使っている伝令鳥のものだった。どこから飛ばされた鳥かまでは、もう分からん。だが、監視隊の鳥が王都に着かず、街道に落ちていた。届くはずの報告が届いていなかった件と、無関係とは思えんな」
セレスは、ユーリの顔を思い浮かべた。何度報告を上げても、返ってくるのは「受領、異常なし」だけだったと言っていた。握り潰されていたのは、あいつの報告だけではなかったのかもしれない。
「ユーリって子が、そのうち王都に来る。報告を上げた本人だ。証言させてやってくれ」
アルトが言うと、上役は短く頷いた。
「承知した。副官の報告書は、それまでこちらで預かっておく。今度は、途中で落とさせない」
上役はそれだけ言うと、椅子から立ち上がりかけて、もう一度腰を下ろした。
「もうひとつ。調査部の爺さんが、君たちに会いたがっていた。預かり物のことで、話があるそうだ」
◇
調査部の小部屋は、前に来た時と何も変わっていなかった。薬草と古い紙の匂いがする。白衣の初老の鑑定士は、一行の顔を見るなり、机の引き出しから小さな木箱を取り出した。
「待っていたよ。これのことで、どうしても伝えておきたくてね」
箱の蓋には、封じの術式が細かく刻まれている。中に入っているのは、黒い布に包まれた鈴だった。
六十一日の期限がつく、ずっと前のことだ。宿の前に置かれていたあの鈴を、ここに預けていった。その時にはまだ名前もなかった少女が、青い顔で手首を押さえていたのを、セレスは今でも覚えている。
「一昨日の夜だ」
鑑定士は、箱の縁に指をかけた。
「私はここで遅くまで書き物をしていた。そうしたら、この箱の中で、鈴が鳴った。封じたまま、一度だけ、ちりん、とね」
部屋の空気が、すっと冷えた。
一昨日の夜。宿場の裏庭で、白い仮面の男が鈴を揺らした夜だ。
「……同じ夜だ」
セレスがつぶやくと、仲間たちの視線が集まった。宿場でのことは、全員が知っている。イリスが、そっと剣の柄に手を置いた。
「つまり、こういうことだと思う」
鑑定士は、丸眼鏡を押し上げた。
「この鈴は、もうひとつの鈴と対になっている。向こうが鳴れば、こちらも鳴る。前に、呼び水かもしれないと言ったのを覚えているかな。半分は当たっていた。これは、誰かを呼ぶための鈴というより、決まった誰かにだけ届くように作られた合図なんだ」
「決まった誰か、ですか」
ミュゼが、小さな声で聞き返した。
「そう。鳴らした者と、この音を聞かされるように作られた者。そのふたりの間でだけ、意味を持つ音だよ」
セレスは、ひとつの夜を思い出していた。
宿の食堂で、あいつが自分の名前を決めた夜だ。あの人が来る時、いつも鈴が鳴る。私を縛るための合図だった。そう言ってから、怖いものの名前を自分のものにしたい、と笑った。
(それで、「リン」か)
あいつは、自分を縛る音に名前をもらって生きていくと決めたのだ。そう思うと、胸の奥が、じわりと重くなった。
「それと、もうひとつ」
鑑定士は、箱をそっと机の端へ押しやった。
「鳴ってからしばらく、鈴が少しだけ震えていた。細い糸で引かれるみたいに、決まった方角へね。……東だ」
アルトが、ゆっくりと顔を上げた。
「旧王都の跡がある方角だな」
「そこに何があるのかは、私には分からない。ただ、この鈴を鳴らした相手は、あちらにいるんだろう」
鑑定士は、木箱をセレスの前に差し出した。
「これは、君たちが持っていくといい。封じは解かないでおく。鳴れば、向こうが近いという合図になる」
セレスは、箱を受け取った。思っていたよりも軽い。指先にはまだ半分くらいしか感覚が戻っていなくて、木の手触りがどこか遠かった。
(今度は、こっちが持って行く番だ)
◇
その夜は、王都にいた頃に使っていた宿に部屋を取った。
ガロンは約束どおり、肉串を両手いっぱいに買い込んできた。円卓に山盛りの串が並んでも、今日はミュゼも呆れた顔をしない。黙って一本取って、黙って食べていた。
「……明日の朝、東門から出る」
アルトが、懐から紙を出して卓に広げた。六十一本の線は、端から順に細く消されている。残りは、五十本ほどだった。
「王都から旧王都の跡までは、東の街道で六日だ。途中の村で、一度馬を替える」
「六日なら、まだ間に合うわね」
イリスが、紙の端を指で押さえた。
「間に合うかどうかじゃなくて、間に合わせるのよ。セレス、あんたがそう言ったんでしょう」
「……ああ」
セレスは、串を一本手に取った。まだ温かい。ガロンが、ちらりとこちらを見て、何も言わずに自分の皿へ視線を戻した。
その時、宿の扉が叩かれた。
入ってきたのは、昼間の上役だった。外套の肩が夜露で濡れている。わざわざ自分で来たということは、使いを出す暇も惜しかったのだろう。
「遅くにすまない。夕方、東の街道から早馬が入った。君たちの耳に入れておいたほうがいいと思ってね」
上役は、立ったまま一枚の紙を差し出した。
「王都から東へ三日の村で、銀ランクの冒険者の組が、何者かに襲われた。四人とも、傷ひとつない。ただ、剣士の身体強化も、魔術師の魔法も、治癒師の治癒も、全部使えなくなっていた。まるで、力の通り道を、途中で切られたみたいにね」
セレスの右手が、ぴくりと跳ねた。
まだ戻りきらない指先の、すとんと抜け落ちたような感覚。あれを、他の誰かも味わったのだ。
「見た者の話では、相手は二人。白い髪の男と、腕に黒い線の走った女の子だったそうだ」
誰も、声を出さなかった。
肉串の脂が、皿の上で静かに冷えていく。
「……一人も、斬ってないのか」
ガロンが、低く言った。
「ああ。死人も、怪我人も出ていない。ただ、力が戻るのに何日かかるのか、誰にも分からないそうだ」
上役が出ていったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
セレスは、自分の右手を見下ろした。
(斬らずに、黙らせた――か)
宿場で聞いた自分の呼び名が、耳の奥で嫌な響き方をした。同じことを、あいつもしている。ただ、あいつがやっているのは、繋ぐことじゃなく、断つことだった。
あいつは、自分で選んで行った。そして今、自分の手で、誰かの力を断ち始めている。
「でも、おかしいですよ」
ミュゼが、膝の上で手を握りしめた。
「リンさん、言ってたんですよね。外に出たら、すぐに満ちるって。だから壁の中に行くって。それなのに、どうして村に……」
「出してる奴がいるんだろう」
アルトの声は、いつもより低かった。
「壁の中で静かに満ちるのを待つ気は、向こうにはないってことだ。……急がせてる」
セレスは、宿場の裏庭で聞いた声を思い出した。器は、自分で選んで満ちるのが、一番いい。そうなるように、私が育てる。
(育てるって、そういうことかよ)
断つたびに、あいつの中の何かが満ちていく。紙の線より速く、期日が近づいてくるのかもしれなかった。
「……東へ三日、ね」
レイフィアが、地図の上に指を置いた。旧王都へ向かう街道の、ちょうど途中だった。
「通り道よ。避けて通る気は、ないんでしょう」
「ない」
セレスは、串を皿に置いた。
膝の上の木箱は、静かなままだった。
第百十四話「鳴った鈴」をお読みいただき、ありがとうございます。
六十一話で預けたままだった黒い鈴が、ようやく口を開きました。そして王都の東で、「斬らずに黙らせる」誰かが現れます。次回、東の街道へ。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




