第百十三話 斬らずの銀
王都へ戻る道中です。久しぶりに、あの鈴の音が聞こえます。
塔を発って二日目の夕方、一行は街道沿いの小さな宿場に着いた。
宿の食堂に入った途端、奥の席で飲んでいた商人たちの声が、ぴたりと止んだ。それから、ひそひそと囁き合う声に変わる。
「……あれじゃないか。北の塔の」
「銀髪の小さいのと、でかい剣の男と、金ランクの女剣士。聞いた通りだ」
「二十人を相手に、一人も斬らずに黙らせたって話だろ」
(……もう広まってるのか)
セレスは、聞こえないふりをして席に着いた。副官が王都へ走らせた伝令か、街道を行き来する荷馬車か。どちらにしても、足が速すぎる。
料理を運んできた宿の女将が、皿を置きながら、にこにこと身を乗り出してきた。
「あんたでしょ、『斬らずの銀』って」
「……なんだそれ」
「北から来た行商が言ってたよ。国境の塔で、悪い隊長をやっつけて、兵隊さんは誰も死なせなかった銀ランクの冒険者がいるって。みんな、そう呼んでる」
女将は、大盛りの煮込みをセレスの前に置いた。
「これは、おまけ。うちの甥っ子も、あの塔にいるんだよ」
女将が行ってしまうと、テーブルに妙な沈黙が落ちた。最初に噴き出したのは、ガロンだった。
「斬らずの銀、か。……くっ、似合わねえ」
「うるさい」
「いいじゃないですか、かっこいいですよ!」
ミュゼが、目を輝かせて身を乗り出す。
「前は『無色の』って、陰口ばっかりだったのに。ちゃんとした呼び名がついたんですよ、セレスさん」
「……ちゃんとしてるか、それ」
イリスが、黙ってスープを口に運んでから、ぽつりと言った。
「二十人のうち、半分以上止めたのは私なんだけど」
「イリス、拗ねてる?」
レイフィアが横目で見ると、イリスはつんと顔を背けた。
「拗ねてないわ。事実を言っただけよ」
アルトが、珍しく小さく笑った。
セレスは、大盛りの煮込みを見下ろした。呼び名なんてどうでもいい。そう思っていたのに、湯気の向こうで女将が嬉しそうにこちらを見ているのを見ると、突き返す気にはなれなかった。
(……まあ、「無色の」よりは、ましか)
右手でスプーンを握る。指先の感覚は、まだ半分くらいしか戻っていなかった。
◇
その夜、セレスは眠れなかった。
宿の裏庭に出ると、月が明るかった。井戸の縁に腰掛けて、右手を開いたり閉じたりしてみる。リンに断たれた指先は、昼間より少しだけ温かい。
(期日まで、か)
アルトの紙には、今朝までの分の線が、また一本消されていた。
ちりん。
セレスの手が、止まった。
ちりん、と、もう一度。小さく、澄んだ音。聞き間違えるはずがなかった。街道の野営地で、王都で、何度も聞いた音だ。
「……出てこい」
セレスは、ゆっくり立ち上がった。剣は、部屋に置いてきている。
裏庭の端、月の光が届かない塀の影に、誰かが立っていた。フードを深く被っている。その奥に、白い仮面がぼんやりと浮かんでいた。片側に、黒い亀裂のような模様が走っている。
白い仮面の男だった。
街道の野営地で、ノアを苦しめたあの男。あれ以来、声しか聞かせなかった男が、今は塀の影に立っていた。
「……久しいな、白銀の本物」
低い声だった。仮面の奥の声は、以前より少しだけ疲れているように聞こえた。
「リンは、どこだ」
「私のところへ来た。あれに連れられて、だが、自分の足でな」
あれ、というのが白い髪の男のことだと気づくのに、少しかかった。塔の穀物庫の前で穏やかに笑っていたあの男を、この仮面の男は、道具のように呼んだ。
男は、指先の細い鈴を、もう一度揺らした。ちりん。
「礼を言っておこう。お前が手を差し出してくれたおかげで、あの子は、自分でそれを断つことを覚えた。……器は、自分で選んで満ちるのが、一番いい」
「あいつは、お前のものじゃない」
「前にも、あの子に同じことを言われたな」
男は、少しも動じなかった。
「だが、次にお前があの子の前に立つ時、あの子はもう迷わない。自分の手で、お前を断つ。そうなるように、私が育てる」
セレスの右手が、固く握られた。まだ感覚の戻りきらない指に、爪が食い込む。
「……わざわざ、それを言いに来たのか」
「いいや」
仮面の男は、首を傾けた。
「顔を見に来た。あれから聞いた。あの子が、眠りながら何度も呼んだ名だそうだな。その持ち主の顔を」
仮面の奥で、目が細められた気がした。
「白銀の本物。お前は、いつもそうだ。誰にでも手を伸ばす。……だから、いつも間に合わない」
「――セレス!」
宿の二階の窓が、勢いよく開いた。イリスだった。抜き身の剣を片手に、窓枠を蹴って裏庭へ飛び降りてくる。
着地と同時に、塀の影へ斬り込む。
だが、剣は空を切った。
ちりん。
鈴の音だけが、夜の中に残った。塀の影には、もう誰もいなかった。
「……逃げたわね」
イリスが、剣を下ろして舌打ちした。それから、振り返ってセレスを睨む。
「一人で出るなって、何回言えば分かるの。剣も持たずに」
「……悪い」
「今の、白い仮面の男よね。姿を見せたのは、野営地の時以来じゃない」
「ああ」
セレスは、男が立っていた塀の影を見つめていた。
(いつも、間に合わない、か)
廃坑の老人。ラーレンの砦。塔の穀物庫。手を伸ばして、届かなかった場面ばかりが、頭をよぎる。
「……イリス」
「何」
「次は、間に合わせる」
イリスは、少しだけ目を見開いて、それから小さく息を吐いた。
「当たり前でしょう。そのために、私たちがいるのよ」
宿の中から、ばたばたと足音が近づいてくる。ガロンの寝ぼけた怒鳴り声と、ミュゼの「何があったんですか!」という声が、夜の裏庭に響いた。
第百十三話「斬らずの銀」をお読みいただき、ありがとうございます。
「無色の」と陰口を叩かれていたセレスに、初めてまともな呼び名がつきました。そして、白い仮面の男が久しぶりに姿を見せました。次回、王都へ。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




