第百十二話 呼ばなかった理由
塔の後始末と、久しぶりの呼び出しです。
日が傾く頃には、塔の騒ぎはすっかり収まっていた。
隊長は縄を掛けられ、塔の一室に閉じ込められた。代わりに兵たちをまとめているのは、頬を腫らした副官だ。まだ足元はふらついていたが、兵たちへ指示を出す声には、昨夜にはなかった張りがあった。
「ユーリの報告は、俺の名前と印をつけて、改めて王都へ上げる。今度は、鳥じゃなく人を走らせる。途中で握り潰されないようにな」
「俺が、持っていきます」
ユーリが言った。
「ヨルを母さんのところへ送ったら、その足で王都へ行く。報告を上げた本人が、証言する」
副官は、少し目を見開いてから、ゆっくり頷いた。
「……頼む。オルドも付けよう。あいつも、検問でお前を通した。どうせ隊長には睨まれてた身だ」
オルドが、照れくさそうに頭を掻いた。
それから、副官はセレスたちに向き直った。
「あんたたちのことも、報告には書いておく。国境監視隊の不正を暴いた冒険者だとな。ギルドが知らんふりをするつもりだったとしても、これで取り上げる理由はなくなるだろう」
「助かる」
アルトが短く礼を言うと、ガロンが横で小さく息を吐いた。
「証を取り直す手間が省けたな」
ユーリは、しばらくセレスの前に立っていた。何か言おうとして、やめて、また口を開く。
「……礼は、言わないって言った」
「ああ」
「だから、借りにしとく。王都で、ちゃんと返す」
それだけ言うと、ユーリはヨルの手を引いて、兵たちの方へ歩いていった。ヨルが振り返って、ミュゼに小さく手を振る。ミュゼは、両手で大きく振り返した。
「……いい子たちでしたね」
「ああ」
ミュゼの声は少し湿っていたが、セレスは気づかないふりをした。
◇
縛られた隊長は、思ったより簡単に口を割った。アルトとレイフィアが一刻ほど話を聞いて、戻ってきた。
「あの男は、月に一度来るたびに、次にどこへ回るかを隊長に話していたそうだ。隊長を、自分の手足だと思ってたんだろうな」
アルトが、地図を広げた。指が、王都の東の端へ滑る。
「旧王都の跡だ。百年前に捨てられた、古い都。あそこにも、ここと同じ『壁のある部屋』があるらしい」
「旧王都……」
レイフィアが、地図を覗き込んだ。
「あの旅商人、旧王国の古い貨幣で支払いをしてたわよね。偶然かしら」
「分からん。だが、手がかりはそれしかない」
イリスが、剣の手入れをしながら顔を上げた。
「ここから何日?」
「王都を経由して、十日」
誰も、長いとは言わなかった。
◇
夜。仲間たちが眠ったあと、セレスは一人で穀物庫へ戻った。
壁の紋様は、もう光っていない。ただの冷たい石の部屋だった。リンが座っていたらしい場所に、薄い毛布が一枚、畳まれて置いてある。
セレスは、その前に腰を下ろした。
(……ずっと、呼ばなかったな)
ずいぶん前に、あいつは言った。何か様子がおかしいと思ったら、すぐに呼べ、と。言われなくても呼ぶ、と返したのは自分だ。
リンが消えた夜も、糸を覗いて倒れかけた日も、呼ばなかった。
「――出てこい」
視界が、ふっと白く滲んだ。
『……遅い』
真っ白な空間に、女神が立っていた。いつもの気の抜けた顔ではなかった。
『遅いよ、セレス。何回呼ばれるかと思って、ずっと待ってたのに』
「悪い」
『なんで呼ばなかったの』
セレスは、少し黙った。
「……呼んだら、答えを聞くことになるだろ。『順番がある』って、また言われるのも嫌だった。けど、それより」
言葉を探して、結局そのまま口にした。
「もう手遅れだって言われるのが、怖かった」
女神は、何も言わなかった。それから、ぽつりと言った。
『……ごめん。そう思わせたの、私だね』
「お前のせいじゃない」
『半分は、私のせい』
女神は、白い床に座り込んだ。セレスも、つられるように腰を下ろす。
『先に言っておくね。リンの糸には、私は触れない。あれは、向こう側の管轄のものだから。手を出したら、たぶん私ごと持っていかれる』
「……そうか」
『覗くと一日削れるのも、そのせい。あなたの紋様で覗くと、糸そのものを道にして向こうへ近づくことになるの。道を踏めば、その分だけ糸が先へ進む』
セレスは、奥歯を噛んだ。やはり、あれは自分が進めてしまったのだ。
『でもね』
女神は、身を乗り出した。
『止まった夜の話、聞いた。あれは、覗いたのとは逆なの。あなたが手を当てて、あの子も、同じ場所に手を当てた。両方から手を伸ばしたら、繋ぐ力は、糸を先へ進める道じゃなくて、その場につなぎ止める力になるの』
「つなぎ止める……」
『あの子が自分から手を伸ばしてる間は、糸は進まない。あなたの力は、相手が手を伸ばさないと届かない。前に廃坑で、そう知ったでしょう。あれは、届かない時の話。届いた時は、こうなるの』
セレスは、自分の右手を見た。昼間、リンに断たれた指先には、まだ感覚が戻りきっていない。
「あいつは、今日、俺の手を断った」
『うん。でも、行く前に言ったんでしょう。「私も手を当ててた、覚えてて」って』
女神は、少しだけ笑った。
『断った手と、覚えててって言った手。どっちも、あの子の手だよ』
セレスは、しばらく何も言えなかった。
「……リンのこと。前に、今度ちゃんと話すって言ったよな」
『言った』
「今は」
『まだ、全部は言えない。ごめん。でも、次に呼ばれた時には、もう少し言えると思う。だから』
女神は立ち上がって、セレスの額を指で軽く弾いた。
『今度は、ちゃんと呼んで。怖くても』
「……分かった」
白い光が薄れていく。消える直前、女神の声が小さく聞こえた。
『あの子、強いね。あなたが思ってるより、ずっと』
◇
目を開けると、穀物庫の冷たい石の部屋だった。
セレスは、畳まれた毛布を手に取った。リンが、ここで何日も過ごした毛布だ。持っていこうかと少し迷って、結局、元の場所に戻した。
(返しに来る。あいつと一緒に)
廊下の窓から、細い月が見えていた。
第百十二話「呼ばなかった理由」をお読みいただき、ありがとうございます。
八十話で「すぐ呼んで」と言われていたのに、ずっと呼べなかった理由。そして、「止まった夜」の意味。次は、旧王都の跡へ向かいます。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




