第百十一話 断つ手
穀物庫の扉が開きました。
セレスは、塔の門へ走った。
炊事場を抜け、石の廊下を駆ける。昨夜は足音を殺して歩いた道だ。今は、そんなことを気にしている余裕はなかった。
突き当たりの、左の扉が開いていた。
穀物庫の中は、外よりずっと寒かった。吐く息が白い。石の壁には、見たことのない細かな紋様がびっしりと刻まれていて、それが淡く青白い光を放っている。
(これが、あいつの言ってた壁か)
部屋の真ん中に、リンが立っていた。
ラーレンの砦で消えて以来、初めて見る顔だった。少し痩せて、髪が伸びている。左の手首から伸びた黒い線は、肘を越えて、もう二の腕の半ばまで這い上がっていた。
「リン」
「……来ないで、って言ったのに」
リンは、泣きそうな顔で笑った。
白い髪の男は、開いた扉の脇に立っていた。手には、鉄の鍵がひとつ。セレスが飛び込んできても、身構えもしない。
「開けたのは、私です」
男は、穏やかに言った。
「ですが、出てくるかどうかは、あの子が決めます。あの子が選ぶのなら、私は止めません。約束しましょう」
「……ふざけるな」
「ふざけてはいませんよ。無理に連れて行った器は、ひびが入りやすいのです」
セレスは、男を無視してリンに向き直った。
扉が開いたせいだろう。リンの手首の黒い線が、じわり、と目に見える速さで動いていた。リンは、それを右手で押さえつけている。指の間から、黒い光が滲んでいた。
「……聞こえるの。壁が開いたら、すぐ近くで。ずっと、呼んでる」
「なら、ここを出よう。今すぐだ」
セレスは、手を差し出した。
「来い、リン。手を伸ばせ」
昨日、あの男に聞かれた言葉だった。扉の前では、言えなかった言葉だ。
リンの目が、差し出された手に落ちた。
右手が、ゆっくりと持ち上がる。震えている。指先が、セレスの手のほうへ、少しずつ近づいてくる。
(届く――)
紋様が熱を帯びた。細い白銀の光が、セレスの指先からリンの指先へ、糸のように伸びていく。
あと、指一本ぶん。
「……だめ」
リンの手が、止まった。
「外に出たら、すぐに満ちる。ふた月なんて、もたない。たぶん、何日かで。……あなたたちの前で、私が、私じゃなくなる」
リンは、首を振った。
「それだけは、嫌。あなたたちに、それを見せるのだけは」
「そんなこと、今考えなくていい!」
「考えるよ。……考えちゃうんだよ、私」
リンの右手が、白銀の糸の上で、静かに握られた。
その瞬間、何かが、ぷつりと切れた。
セレスの手が、見えない力で弾かれた。指先から伸びていた光の糸が、途中で断ち切られて、空中でほどけて消えていく。
痛みはなかった。ただ、差し出した手の先から、何もかもがすとんと抜け落ちたような感覚だけがあった。
(……断たれた)
リンの力だ。繋がりそのものを、切り離す力。それを自分に向けられたのは、初めてだった。
「……ごめん」
リンは、うつむいた。
「次の場所にも、壁があるんでしょう」
「ええ。ここより厚い壁が。期日まで、静かに満ちていけます」
男が答えた。
「なら、行く。壁の中なら、期日までは、もつ」
リンは、男のほうへ一歩踏み出した。それから、足を止めて、振り返らずに言った。
「……期日まで、ちょうだい」
「リン」
「その間に、来て。今度は、私が、手を伸ばせるところまで」
セレスは、何も言えなかった。
男が、リンの肩にそっと手を置いた。足元から、黒い光が湧き上がる。ラーレンの砦で見たのと、同じ光だった。
「……止まった夜、あったでしょう」
黒い光に包まれながら、リンが小さく言った。
「あれ、私も、手を当ててた。……それだけ、覚えてて」
「リン!」
セレスが踏み込んだ時には、もう遅かった。黒い光は、二人を飲み込んで、ふっと消えた。
穀物庫の壁の紋様が、ひとつ、またひとつと光を失っていく。部屋の寒さだけが、しばらく残っていた。
◇
どれくらい、そこに立っていたのか分からない。
「……セレス」
後ろから、ガロンの声がした。いつの間にか、仲間たちが廊下に集まっていた。誰も、中へは入ってこなかった。ミュゼが、両手で口元を押さえていた。
「連れていかれたのか」
「違う」
セレスは、自分の右手を見下ろした。指先には、まだ何の感覚も戻っていない。
「あいつが、自分で行った。俺の手を断って、自分で選んで行ったんだ」
アルトが、黙って懐から紙を取り出した。六十一本の線。そのうち、薄くこすった一本を、しばらく見つめていた。
「……期日まで、と言ったんだな。あいつは」
「ああ」
「なら、この紙は、まだ使える」
アルトは紙を畳み直して、懐にしまった。
「『来て』と言ったんだろう。だったら、行くしかない」
セレスは、右手を握った。何も感じない指で、それでも、固く握った。
(今度は、手を伸ばせるところまで、か)
あいつは、自分で決めて行った。守られるだけの子じゃなかった。なら、こっちも、ただ追いかけるだけじゃ足りない。
約束は、しない。守れなかった約束は、ずっと残るから。
ただ、あいつが手を伸ばせる場所までは、必ず行く。
第百十一話「断つ手」をお読みいただき、ありがとうございます。
リンは連れ去られたのではなく、自分で選んで行きました。セレスの力を、初めて自分の意思で断って。ここから物語は、「探す」から「間に合わせる」へ変わっていきます。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




