第百九話 止まった一晩
白い髪の男が、丘を登ってきます。
白い髪の男は、武器も持たずに丘を登ってきた。外套の前を開けたまま、散歩でもするような足取りで草を踏んでくる。
「――動くな」
アルトが低く言った。ガロンは荷台の陰で大剣を握り、イリスは丘の縁で片膝をつく。レイフィアの細剣が、鞘の中でかすかに鳴った。
男は十歩ほど手前で足を止め、にこやかに会釈した。
「お久しぶりです、セレスさん。ラーレンの地下以来ですね」
柔らかい声だった。砦の最奥で「駒が一つ、揃いました」と笑った、あの声と同じだ。
「名前を、どこで知った」
「あの子が、眠っている間に何度か。起きている時は、一度も呼びませんでしたけれど」
セレスの奥歯が軋んだ。
(起きてる間は、呼ばなかった。……リンらしいな)
自分で決めたことは曲げない子だ。眠っている間まで、それを守れと言う方が無理だった。
「今日は、お願いに来ました」
男は、少し困ったように眉を下げた。
「昨夜、穀物庫の扉に手を当てましたね。あの子の糸が、ひと晩止まりました。ラーレンから連れ出して以来、一度もなかったことです」
セレスは、思わず左の手のひらを握った。扉の向こうから、低いところに触れてきたあの手。同じ高さの、同じ形の温もり。
「……止まった、のか」
「ええ。困ったことに」
男は胸に手を当てた。
「器は、急いで満たすと割れます。ですから、あの部屋の壁は私が作りました。声があの子に届きすぎないように、ゆっくり、ふた月かけて満ちるように」
「……壁が、リンを止めてるって」
レイフィアが息を呑む。
「あの子はそう感じているでしょうね。間違いではありません。壁は、あの子を守っています。私の都合で、ですが」
男は、さらりと言った。
「ところが、あなたが触れると糸が止まる。止まった器は育ちません。予定を早めたのは、そのためです。今日、あの子を次の場所へ移します」
「させない」
「そう言うと思いました」
男は、表情ひとつ変えなかった。
「ですから、先に申し上げておきます。塔の兵は、隊長の命令で動きます。隊長は、あなたがたを、昨夜ヨルをさらった賊だと思っています」
荷台の上で、ユーリの肩が跳ねた。
「隊長には、私の頼みを少しだけ聞いてもらっています。ですが兵たちは何も知りません。ただ命令どおりに、あなたがたを斬りに来ます」
男が丘の下を振り返る。
塔の門から、兵の列が出てきていた。さっき街道へ散った捜索の兵を呼び戻したのだろう、今度は二十人はいる。先頭には、飾りのついた兜の男。
「あの中には、ユーリさんの班の方もいるでしょう。斬れますか」
「……オルドが、いる」
ユーリの声が震えた。
「あなたがたが引けば、兵は誰も死にません。あの子は次の場所で、静かに満ちていく。それがいちばん穏やかな道です」
「穏やかって言葉を、お前が使うな」
ガロンが低く吐き捨てた。男は、そちらを見もしない。
セレスは、一歩前に出た。
(話してる間に、終わらせる)
踏み込みざま、男の手首を掴む。紋様が熱を帯びた。借りる。繋ぐ。この男が何を考え、何を怖がっているのか、そこから崩してやる――
何も、流れてこなかった。
冷たい水に手を突っ込んだような、底のない手応えだけがあった。
「……っ」
「無駄ですよ」
男は、掴まれた手首を振りほどこうともしなかった。
「私には、あなたの力を受ける口がありません。ずいぶん昔に、自分で塞ぎましたから」
セレスは、手を離した。指先が、まだ痺れている。
(受ける口を、自分で塞いだ……?)
そんなことが、できるのか。誰にでも届くと思っていたわけじゃない。だが、ここまで何もない相手は、初めてだった。
「最後に、一つだけ」
男は、乱れた袖を整えながら言った。
「あなたは、あの子に、手を伸ばせと言いましたか」
セレスは答えられなかった。言っていない。扉の前で言ったのは、「今は、開けない」だけだ。
「でしょうね。あの子は、手を伸ばしませんよ。伸ばせば、あなたがたが巻き込まれると知っていますから。昨夜の一度きりです」
それだけ言うと、男は背を向けて丘を下り始めた。
誰も、その背に刃を向けなかった。向ければ、下の兵が一斉に登ってくる。男の姿は、兵の列の脇をすり抜けて、塔の門の中へ消えていった。
◇
「――時間がない」
アルトが懐から紙を出した。六十一本の線のうち、黒く塗られた一本の隣で、今朝までの五本が細く消してある。
アルトは炭の欠片を手に取り、少し迷ってから、昨夜の分の一本を指でこすった。消しかけた線が、薄く戻る。
「……昨夜の分は、減ってない。そういうことだろう」
セレスは、その薄い一本をじっと見ていた。
たった一晩だ。扉一枚越しに、手のひらを合わせただけだった。それでも、止まった。
(なら、まだ打てる手はある)
「兵は、俺とイリスで止める」
ガロンが大剣を担いだ。
「斬らずに、だ。オルドって奴の顔を、俺は知らねえ。だから誰も斬らねえ」
「無茶を言うわね」
イリスが立ち上がって、剣の柄に手を掛けた。
「二十人を斬らずに、でしょう。……いいわ。半分の力で足りる」
「ミュゼは、ユーリとヨルを乗せて、馬車ごと後ろの林へ」
「はい、任せてください!」
ミュゼがすぐに手綱を取る。目を覚ましたヨルが、兄の袖を掴んだ。
「にいちゃん」
「大丈夫だ。すぐ戻る」
ユーリはそう言いかけて、首を振った。
「……いや、俺も行く」
「お前は残れ」
セレスが言った。
「オルドの顔を知ってるのは、お前だけだ。下の連中に声を掛けられるのも、お前だけだ。だから丘の上から呼べ。下には降りるな」
ユーリは唇を噛んで、頷いた。
「私とアルトは、裏の穴から入るわ。副官を探す。あの人が、まだ無事なら」
レイフィアが細剣を抜く。
「俺は、正面から行く」
セレスも剣を抜いた。
丘の下で、兵の列が足を止めた。先頭の兜の男が、剣を高く掲げる。
「賊どもに告ぐ! ヨルを返し、投降せよ!」
隊長の声だった。ユーリの報告を「受領、異常なし」で握り潰してきた男の声だ。
左手首の紋様が、静かに熱を帯びていく。
「返す相手が、違うだろ」
セレスはそう言って、丘を駆け下りた。
第百九話「止まった一晩」をお読みいただき、ありがとうございます。
扉越しに手を合わせた一晩が、何を変えていたのか。そして、セレスの力が初めてまったく届かなかった相手。次回は、塔の前での戦いです。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




