第百八話 昼の鐘
塔を出た翌日です。明後日のはずの男が、早く来ました。
馬車は、夜のうちに丘を二つ越えた。
ヨルはミュゼの膝で眠っていた。兄の外套にくるまって、口の端には、椀の底に残っていた粥の跡がまだ付いている。ユーリは荷台の縁に座り、その寝顔から一度も目を離さなかった。
「……礼は、言わない」
ぽつりと、ユーリが言った。
「言ったら、あんたたちに借りができる。俺には、借りを返せるほどのものがない」
「要らねえよ」
手綱を握ったまま、ガロンが答えた。
「飯を食わせて、寝かせてやれ。それが礼だ」
ユーリは、それきり黙った。肩が、小さく震えていた。
◇
夜明け前、セレスはアルトと二人で、馬車から少し離れた岩場に腰を下ろした。
「開けるな、って言われた。リンに」
セレスの方から切り出した。
「外に出れば、あの声がもっと近くなるんだと」
「それで、引いたのか」
「引いたんじゃない」
セレスは、左の手のひらを見た。まだ、微かに温かい気がする。
「順番を変えただけだ。あいつを連れ出す前に、あの壁が何なのかを知る。壁がリンを止めてるなら、外した時に何が来るのかも、知っておかないといけない」
アルトは、しばらく考え込むように黙っていた。
「扉は、冷たかったんだな」
「石よりもな」
「なら、ただの錠じゃない。何かを遮ってるんだ。……遮ってる物を壊せば、遮られてた物が一気に入ってくる」
そう言って、アルトは立ち上がった。
「副官は、今日隊長に呼ばれる。そこで何を話すかで、明後日がいくらでも変わる。見に行こう」
◇
昼前、一行は丘の陰に戻っていた。ヨルを乗せたまま遠くへ逃げるには、馬が疲れすぎている。それに、リンを置いて離れるつもりは、誰にもなかった。
塔の手前の村まで様子を探りに行っていたアルトが、先に戻ってきていた。
「村で聞いてきた。髪の白い客が、今朝早くに村へ着いたそうだ。予定より、だいぶ早い。昼前には、塔の方へ出たらしい」
「……明後日じゃ、なかったのか」
セレスが呟く。塔は昨日と同じ形で、そこに立っていた。裏門の方角に、人影は見えない。
丘の縁に伏せて見張っていたレイフィアが、振り返らずに言った。
「動きはないわ。朝、副官が塔の階段を上がっていったきり。誰も出てこない」
セレスも、その隣に伏せた。風が、草の穂を撫でていく。荷台ではヨルがまだ眠っていて、ユーリはその脇で、膝の上の拳を固く握っていた。
その時、塔の屋根の鐘が動いた。
屋根の下で誰かが綱を引いたのだろう。鐘が大きく揺れて、低く割れた音が、昼の空に響き渡った。
「……日没じゃない」
ユーリが、荷台から掠れた声で言った。
「あの鐘が昼に鳴るのは、非常の時だけだ。二度目が鳴れば、隊が総出で外を探す。……ヨルのことが、ばれた」
言い終わる前に、もう一度鐘が鳴った。塔の門が開き、兵が五人、六人と走り出てくる。街道の方へ、散っていく。
イリスが、剣の柄を掴んだ。
「馬車を動かすわ」
「待て」
アルトが低く制した。
「動けば見つかる。丘の陰を出るな。……副官がどうなったか、分かるまでは」
誰も、答えなかった。
兵の一人が、丘の方角へも向かってきた。草の上を、まっすぐにこちらへ。ガロンが荷台の後ろで、大剣に手をかける。
(……来るか)
だが、兵は丘の裾で足を止めた。辺りを見回して、何かを草の上に置く。小さな布の包みだった。兵は丘の上を一度も見ないまま、踵を返して走り去った。
ユーリが荷台から降りて、包みを拾い上げた。中には干し肉が一切れと、折り畳んだ紙が一枚。紙を開いたユーリは、読み終えるまでに、ずいぶん時間をかけた。
「……副官の字だ。この丘は、隊が夜番の時にいつも見逃してる死角なんだ。副官は、それを知ってる」
紙を持つ手が、震えていた。
「『あの人が、予定を早めて、もう近くにいる。今日、来る』」
「副官は、それを伝えるためだけに、部下を一人使ったのか」
セレスが言うと、ユーリは紙を裏返した。裏には、もう一行だけ、走り書きがあった。
「『穀物庫の中の娘を、あの人は、今日、連れて行く』」
レイフィアが、細剣の柄を握り直した。
塔の屋根の鐘は、もう鳴らなかった。代わりに、街道の遠い先に、一つの影が現れる。
白い髪の男が、一人でこちらへ歩いてきていた。昼の光の中で、その髪だけが不自然なほど白い。
(――あいつだ)
ラーレンの砦の最奥にいた、あの男だった。
男は丘の下で、ふと立ち止まった。そして、セレスが伏せている場所を、まっすぐに見上げた。
距離はあるはずだった。それでも、目が合ったと分かった。
男の唇が、ゆっくりと動く。声は届かない。それでもセレスには、自分の名を呼ばれたのだと分かった。
第百八話「昼の鐘」をお読みいただき、ありがとうございます。
次回は、丘の下に立つ白い髪の男と、セレスの選択です。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




