第百七話 扉一枚
国境監視所に、裏から入ります。
三日目の夜、一行は火を囲んで、段取りを決めた。レイフィアが、地図に指で線を引く。
「副官って、どういう人」
ユーリは少し考えてから答えた。
「……妹に、飯を余分によそってくれる人だ。隊長の言うことには、逆らわずに従う」
アルトが、副官宛の封筒を指で弾いた。
「これは、正面から入る時の札だ。決行の日には使わない。ユーリの図で、裏から入る」
「見張りの交代は、いつ?」
「日没の鐘が鳴ってから、半刻後だ」
イリスが、剣の刃を火にかざした。
「なら、鐘のあと半刻、待つのね」
◇
四日目の夕方、日没まであと半刻という頃、街道が丘に差しかかった。ユーリが、初めて幌の外へ身を乗り出す。
「止めてくれ。ここから先は、見張りの目が届く」
ガロンが手綱を引いた。丘の向こうに、四角い石造りの古い塔が見える。屋根の端に、鐘が一つ吊るされていた。
「あの穀物庫の隣の物置に、妹がいる」
ユーリは、塔から目を離さなかった。
一行は馬車を丘の陰に寄せ、半刻、息を潜めた。セレスは幌の縁を掴んだまま、手首の紋様に伸ばしかけた手を止める。
(覗かない。……今は、覗かない)
風が止んだ。塔の鐘が、一度だけ鳴る。低く、割れた音だった。
「――日没だ」
ユーリが、小さく言った。
◇
鐘のあと、半刻。塔の窓の灯りが、一つ消えた。
ユーリが先に立って、闇の中を進む。塔の裏手の壁に、腰の高さの石積みの穴が空いていた。炊事場の生ごみを、外の溝へ流す口だ。
「ここから入る。俺が先だ」
アルトは馬車に残った。封筒の札は、失敗した時に正面から掛け合うための保険になる。レイフィアは裏門の見える茂みへ、イリスは塔の反対側へ回った。ミュゼは馬車の脇で火種を守り、鍋を掛ける支度をしている。ヨルが戻ったら、すぐに温かいものを出せるように。
セレスとガロンが、ユーリの後に続いて穴をくぐった。
炊事場は、冷えた油と古い煮汁の匂いがした。その先の廊下は石の床で、足音を殺しても、壁がかすかに反響する。突き当たりに、扉が二つ並んでいた。右が物置、左が、太い鉄の錠の掛かった穀物庫だ。
物置の錠は、真新しかった。
ガロンが腰から小刀を抜き、錠には触れずに、蝶番の釘の頭へ刃を差し入れた。一本ずつ、静かに抜いていく。料理人が骨を外すような手つきだった。最後の一本が抜けると、扉が音もなく傾いた。
物置の隅に、小さな影が膝を抱えて座っていた。十二くらいの少女で、髪に干し草が付いている。
「……ヨル」
ユーリが膝をつくと、少女の目が開いた。
「にいちゃん」
掠れた声だった。
「手紙、書けって言われたの」
「ああ」
「私、にいちゃんのこと、いつもの通りに『ユリー』って書いたの。そしたら、隊長が直した。『ユーリ』って。……私、ずっと、そう書けなかったのに」
ユーリの喉が動いた。何も言わずに、妹の頭に手を置いて、干し草を一本ずつ取ってやる。
(……五日も、こんなところに)
セレスは、奥歯を噛んだ。
◇
廊下の向こうで、灯りが揺れた。ガロンが扉の陰で、剣の柄に手を置く。
現れたのは、盆を持った中年の男だった。外套の襟に、監視隊の副官の徽章が付いている。盆の上では、湯気の立つ椀が二つ揺れていた。
男は、傾いた物置の扉を見て、それからユーリを見た。
「……ユーリ。戻ってきたのか、馬鹿が」
ユーリは、ヨルを背に庇って立ち上がった。
「斬るなら、俺からにしてください。妹は、連れていきます」
副官は、ガロンの剣を見て、セレスの目を見た。それから、盆をそっと床に置いた。
「……冷める前に、食わせてやれ」
ひどく疲れた声だった。
「夜番が、じきに巡ってくる。出る穴の前は、俺が人払いしておく」
「あんたは、どうするんだ」
セレスが聞くと、副官は首を振った。
「物置の錠が外れてるのは、朝には知れる。明日の朝、俺は隊長に呼ばれるだろう。その時に何を言うかは、まだ決めてない」
副官は、左の穀物庫の扉を顎で示した。
「そっちには触るな。俺には開けられん。……白い髪の男の、持ち物だ。中の食い物は、隊長が自分で運んでる」
「その男は、いつ来る」
「明後日だ」
それだけ言って、副官は背を向けた。灯りが、廊下の奥へ遠ざかっていく。
(明後日、か)
セレスは、その言葉を奥歯で噛みしめた。
◇
ガロンがヨルを背に負った。ユーリが盆の椀を二つともヨルの手に握らせると、ヨルはその一つを兄に押しつけた。
「先に出ろ。すぐ行く」
セレスはそう言って、穀物庫の扉の前に立った。
鉄の錠が、暗がりで鈍く光っている。物置とは違って、こちらの蝶番は内側にあった。外から開けるには、錠を壊すしかない。ガロンの大剣なら錠ごと扉を割れるだろうが、音がする。塔のどこかで、誰かが起きる。
セレスは、扉に左の手のひらを当てた。石よりも、冷たかった。
紋様が、静かに脈を打つ。覗こうとはしなかった。ただ、触れているだけだ。
その時、扉の向こうで、衣が擦れる音がした。
「……セレス?」
小さな声だった。喉が鳴った。
「リン」
「……来ないで」
声は、扉のすぐ向こうにあった。座って、背中を扉に預けているのだと分かった。セレスは、声を殺して続けた。
「四日前、お前の脈が跳ねた。何をされた」
「……何も。呼ばれた、だけ」
「あの声か」
「うん。壁の向こうから。……外に出たら、もっと近くなる。この壁が、私を止めてるの」
少し、間があった。
「だから、開けないで。お願い」
「……聞こえてたぞ。寒い、怖い、誰か、って」
返事は、なかった。
「それでも、お前が来るなって言うなら。今は、開けない」
セレスは、扉の前に膝をついた。
すると、扉の向こうで、何かがそっと、扉の低いところに触れた。
手のひらだった。
扉一枚を挟んで、同じ高さに、同じ形の温もりがあった。
リンは、それ以上何も言わなかった。セレスも、何も言わなかった。どれくらいそうしていたのか、分からない。
「――セレス」
廊下の奥から、ガロンの押し殺した声がした。
セレスは手を離して、振り返らずに歩き出した。
左の手のひらだけが、塔を出るまで、ずっと温かかった。
第百七話「扉一枚」をお読みいただき、ありがとうございます。
扉越しの、ほんの短い時間。次回、明後日のはずだった男が動きます。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




