第百六話 1日の値
旅商人が期限を告げ、一行は国境へ向かいます。
見取り図を懐に入れて宿へ戻ってくると、裏の路地に、線の細い旅商人の青年が立っていた。セレスが足を止めると、隣のアルトも足を止める。
青年は壁に背を預けたまま、軽く会釈した。
「約束通りです。今日は、逃げません」
「値札を教えに来たのか」
「はい。リンさん――あの日、あなたがそう呼んでいた子の、糸の話です。そちらの方にも聞いていただいたほうがいい」
青年は路地の左右を一度見てから、声を落とした。
「糸は、手首から心臓へ向かって伸びます。私が遠くから見た限り、今のままなら、ふた月で届きます」
「届いたら、どうなる」
「器が完成します。向こうの言い方ですが。あなたの知っているリンさんは、そこで終わります」
セレスは、何も言えなかった。ふた月という数字を、頭の中で指を折るように数えていた。
「それと、一つ先に言っておきます」
青年は、指を一本立てた。
「数日前、紋様を辿って、向こうを覗いたでしょう」
「……見えてたのか」
「いいえ、見えません。ただ、あの日、糸が動きました」
青年の声に、責める色はなかった。
「あなたが覗くたびに、糸は一日ぶん進みます。あの日の一日は、もう戻りません。本当は、ふた月と一日あったはずでした」
(……何度もやれば辿り着ける、って言ったよな、俺)
その「何度も」に、値札が付いた。覗いたあの数十秒の間に、一日がリンの体から抜けていったのだ。
「覗かなくても、当たりはある。北の端の、国境の塔だ」
セレスが言うと、青年は一拍だけ黙った。
「……糸の向きとは、合います。なら、覗く必要はもうありませんね。私は止めません。ただ、覗いた分だけ削れるのは、彼女です」
青年の視線が、ふと路地の奥へ動いた。
その時だった。手首の紋様が、跳ねた。
一度、二度。あの夜、焚き火の脇で感じた一度きりの脈とは違う。速く、乱れた拍だった。息が浅くなり、膝の力が抜けかける。
「……今、向こうで何かが動いています」
青年が低く言った。
気づけば、セレスの右手が左の手首を掴んでいた。指の下で、脈が悲鳴のように鳴っている。
「一日だけだ」
声が、勝手に出た。
「今、何をされてるのか。それだけでいい」
「見えます。そして、一日失います」
青年は、止めなかった。さっき言った通りだった。
目を閉じかけた、その手首を、横から別の手が掴んだ。
「――離せ」
「離さない」
アルトだった。
振り払おうとしても、アルトの指は骨に食い込んで離れない。壁に背中を打ちつけても、まだ離れない。腕の皮膚に、指の跡が白く浮いた。
「見なかったら、あいつが今日何をされたか、一生分からないんだぞ」
「覗くたびに削れるのは、リンだ。それでも見るのか」
アルトの声は低く、荒れていた。
「……どっちが軽いか、俺には言えない。だが、あの日のお前は、立ってるのがやっとだった。汗が止まらなかった。俺は見てる」
指に、さらに力がこもる。
「次に無理をしたら、何日動けなくなるか分からない。その間、誰もあいつのそばへ行けないんだ」
脈は、まだ鳴っている。セレスは奥歯を噛みしめた。
拍が、少しずつ間遠になっていく。一つ。間があって、もう一つ。やがて、止まった。
全身から力が抜けて、壁に背を預けたまま、ずるりと腰が落ちた。アルトは、それでもしばらく手を離さなかった。
「……何をされたのか、分からない」
「ああ」
掠れた声でこぼすと、アルトはそれだけ答えた。
青年が、路地の奥へ一歩下がる。
「私は、値札を教えるだけです。払うのはリンさんで、決めるのはあなたです」
そう言い残して、青年の姿は路地の奥へ消えた。
◇
その夜、宿の階段の踊り場で、アルトは帳場で借りた反故紙を手すりの上に広げた。炭の欠片で、線を一本ずつ引いていく。
セレスは、その手元を黙って見ていた。腕に残った指の跡は、まだ消えていない。
「六十一。ふた月と一日だ」
アルトはそう言って、一番端の一本を親指で黒く塗りつぶした。
「これが、お前が使った分だ」
それから紙を四つに畳むと、セレスには渡さず、自分の懐に入れた。
「これは、俺が持つ。お前は、数えるな」
(……ずるいな、それ)
言い返す言葉は、出てこなかった。
◇
ふた月のことは、その晩のうちにアルトが上役と仲間に伝えた。ガロンは何も言わず、翌朝、荷馬車の積み荷を半分に減らした。
その朝、上役は、宛名のない封筒を机の上に置いた。
「国境監視所の副官に渡せ。ユーリの話じゃ、隊長のそばで内情を一番見ているのは、副官だそうだ。表向きは、国境沿いの水場の調べということで通してある。……ただし、副官が組織と通じていない保証は、俺にはない」
上役は、続けた。
「それと、ギルドはこの件を知らないことになる。お前たちが捕まれば、そう言う。ギルド証も、その場で取り上げる」
「証なら、また取り直す」
ガロンが低く言うと、上役は少しだけ口の端を動かして、封筒を押しやった。
「ふた月しかないと言ったな。根拠は聞かん。急げ」
◇
馬車は、ユーリを含めた七人を乗せて王都を出た。
ユーリは幌の一番奥で外套を頭からかぶり、最初の一日は誰とも口を利かなかった。二日目の朝になって、初めて自分から口を開く。
「最後の宿場町を出る道には、同じ班の連中が立つ。俺の顔は、知られてる」
それでも、誰も引き返そうとは言わなかった。
二日目の夕方、宿場町を出た道の先に、検問があった。街道の真ん中に丸太が一本渡してあり、その脇に、監視隊の紋章を胸につけた兵が二人立っている。
「行き先と、通行料」
アルトが、ギルドの調査依頼書を見せた。年嵩の兵が、それを上から下までゆっくり読んでいく。その間に、もう一人の若い兵が馬車の後ろへ回った。
幌が、めくられた。
ユーリは麦袋の陰で、外套を頭からかぶっていた。ただ、襟の内側に、監視隊の縫い取りが糸の切れ端になって残っている。若い兵の目が、その襟で止まった。
ガロンの手が、剣の柄に降りる。セレスも膝の上で、そっと指を開いた。
(……気づかれたか)
若い兵は、ゆっくりと外套の端を持ち上げた。ユーリの顔が、夕日の下に出る。
「……ユーリ」
声にならない声だった。ユーリは、目を逸らさなかった。
若い兵は、幌をぱさりと落とした。そして振り返り、年嵩の兵へ大声を張り上げる。
「熱病だ! 顔が真っ赤で、うわ言を言ってる。さっさと通せ、うつるぞ!」
年嵩の兵が、慌てて一歩下がった。
若い兵は、もう一度だけ幌の隙間に顔を寄せた。口だけが動く。声は、ほとんど出ていなかった。
「ヨルは、三日前から炊事場にいない。穀物庫の隣の、物置だ。隊長が、鍵を替えた」
ユーリの肩が跳ねた。若い兵はそれ以上何も言わず、丸太が上がった。
馬車が動き出してからも、ユーリは竹筒を握ったまま、しばらく動かなかった。
その夜、火の脇で、ユーリは見取り図を広げた。セレスから炭の欠片を受け取って、「炊事場から、三つ目の扉」の字の上に太い線を引く。その隣に、書き足した。
――物置。穀物庫の隣。
「……あの手紙、たぶんヨルの字じゃない」
ぽつりとそれだけ言って、ユーリは口を閉じた。
「さっきの若いのは、オルドだ。同じ班だった。俺を、見なかったことにした。……隊長に知れたら、あいつもただじゃ済まない」
誰も、すぐには何も言えなかった。
ミュゼが黙って、干し果物を一つ、ユーリの膝に置いた。ユーリはしばらくそれを見ていたが、やがて二つに割って、半分をミュゼに返した。
「……妹が、これを好きなんだ」
残りの半分を、口に入れる。
見取り図の上で、二つの丸は、もう壁一枚で隣り合っていた。
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