第百一話 白い鳥、飛び立つ
ノアの旅立ちを、正面から書きます。
街道は、昨日よりも静かだった。
静かすぎる、とイリスが言った。
「――鳥の声が、しない」
「気にしすぎじゃないか」
「かもしれない。でも、昨日からずっとそう」
セレスは、周囲の木々に目をやった。何も見えない。ただ、背中の産毛が、わずかに逆立つような感覚だけがあった。
昼過ぎ、休憩のために足を止めた時、レイフィアが街道の脇の茂みから、白い羽を一枚拾い上げた。
「――これ」
「鳥の羽じゃないのか」
「切り口が、まっすぐすぎる。自然に抜けた羽じゃないわ」
誰かが、意図的に落としたか。あるいは、何かに切り落とされたか。
アルトが、羽を受け取り、しばらく眺めてから、懐にしまった。
「……何かの合図か、目印かもしれない。だが、今は分からない。持って進もう」
誰も、それ以上は言わなかった。だが、全員の足取りに、わずかな緊張が加わった。
◇
夜、街道から少し外れた森で、火を囲んだ。
王都まで、あと一日。
焚き火の脇で、ノアは、膝の上の木彫りの鳥を、指先でそっとなぞっていた。
「――ノア」
声をかけたのは、ガロンだった。
「決めたのか」
「……はい」
ノアは、顔を上げた。
「ラーレンの依頼は、終わりました。守備隊の正体も、突き止めました。あとは、王都に報告するだけです」
「それと、旅立つ話は、別だろ」
「別じゃないです」
ノアは、木彫りの鳥を、両手で包むように持った。
「あの依頼が終わったら考える、って言いました。もう、終わったので」
焚き火を囲む全員の視線が、自然と集まった。
「――言ってみろ」
セレスが、静かに促した。
ノアは、一度、深く息を吸った。
「ラーレンで会った、あの子です。隠れ里に預ける時も、ずっと同じ目をしてました。自分で決めていいと、教えられたことがない目です」
「知ってる目だ」
「私も、そうでした」
ノアは、頷いた。
「昔の私が、まさにそうだったので。試作として作られて、役目をこなすことが、生きることだと思ってました。それを教え直してくれたのは、ここにいる皆さんです」
木彫りの鳥を、握りしめる。
「だから、今度は私が、それをやりたいんです。割り振られて、選ぶことを知らないまま育つ子を、一人でも減らしたい。隠れ里は、まだ一つしかありません。ああいう場所を、もっと増やしたい」
「それが、お前の『降りた』先か」
ガロンの問いに、ノアは、はっきりと頷いた。
「はい」
「――待て」
セレスが、少し身を乗り出した。
「それは、リンのことを諦める、って意味じゃないだろうな」
「違います」
ノアの声に、初めて強さが混じった。
「絶対に、連れ戻すって言いました。あれは、噓じゃないです」
ノアは、火を見つめた。
「隠れ里みたいな場所は、逃げてきた人や、割り振られてた人が集まります。あの組織のことを知ってる人間も、いずれそこに流れ着くかもしれません。私が動いて、そういう場所を繋いでいけば、リンの手がかりに、いつか行き当たるかもしれない」
「――遠回りに見えて、実は同じ道の先にいる、ってことか」
アルトが、腕を組みながら言った。
「悪くない読みだ。俺の伝手も、いくつか貸せる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。むしろ、こっちが助かる話だ。俺一人じゃ、手が回らなかった場所だ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
薪が、小さく爆ぜる音だけが響いていた。
「――寂しくなるな」
ミュゼが、ぽつりと言った。
「まだ、決まったばかりです。すぐにいなくなるわけじゃ」
「分かってる。でも、決まったこと自体が、寂しい」
ミュゼは、鼻の頭を少し赤くしながら、無理に笑った。
「でも、ノアが選んだ道なら、応援します」
「ありがとうございます」
ノアも、釣られるように、少しだけ表情を緩めた。
その空気を見て、ミュゼが、わざとらしく明るい声を出した。
「私、たまに様子を見に行きますから。プリンの美味しい店、見つけたら教えてください」
「――優先順位、それでいいのか」
イリスが、呆れたように言った。だが、その声にも、笑いが混じっていた。
レイフィアは、しばらく黙って火を見ていたが、やがて口を開いた。
「――一つだけ、聞いていい」
「はい」
「怖くないの。一人で、知らない場所を渡り歩くのは」
ノアは、少し考えてから、首を振った。
「怖いです。でも、ここに来る前の方が、もっと怖かった。何も選べないまま、ずっと同じ場所にいることの方が」
その言葉に、レイフィアは、小さく頷いた。
「――そう。なら、いいわ」
「レイフィアさんも、怖いものから、ちゃんと自分の足で離れた人でしたね」
「……よく覚えてるわね、そんなこと」
「忘れません」
ノアは、静かに笑った。
セレスは、しばらく黙ったまま、火を見ていた。
「――お前が来てから、パーティーの空気が、大分変わった。それは、間違いない」
「私、そんな大したことは」
「してる」
セレスは、断言した。
「リンのことも、お前がいなかったら、あそこまで踏み込めなかった。あの子を助けた時、真っ先に動いたのは、お前だった」
「あれは、ガロンさんが『決めた通りにやれ』って言ってくれたからです。一人だったら、固まってました」
「言われたからって、あそこまで動けるもんじゃない。あれが、お前の答えだった。それでいい」
ノアは、木彫りの鳥を、そっと胸に当てた。
「――ガロンさん」
「ん」
「この鳥、貰った時、意味が分からなかったんです。でも、今なら分かります」
「――そうか」
「行きたい場所へ、自分で行けるように。そう言ってくれましたよね」
「言ったな」
「今から、それをやります」
ガロンは、しばらく黙って、火を見ていた。それから、いつもより低い声で言った。
「――行ってこい。飯は、いつでも作ってやる。戻ってきた時にな」
「――はい」
ノアの声が、少しだけ震えた。
◇
翌朝、街道が二つに分かれる場所に着いた。
一方は、王都へまっすぐ続く道。もう一方は、小さな町を経由して、南へと向かう道だった。アルトの伝手を頼れば、そちらの町にも、身元を隠せる場所があるという。
「――ここまでだな」
アルトが、地図の分かれ道を指でなぞりながら言った。
「南の町に着いたら、この名前を出せ。悪いようにはしない」
「ありがとうございます」
ノアは、地図の切れ端を受け取り、丁寧に折りたたんだ。
荷物をまとめ終えたノアは、一人一人の顔を、順に見た。
「――皆さん」
「ん」
「今まで、ありがとうございました」
深く、頭を下げる。
ミュゼが、真っ先に駆け寄って、ノアを抱きしめた。
「絶対、様子見に行きますからね」
「はい。待ってます」
イリスは、いつもの短い言葉で。
「――達者でな」
「イリスさんも」
レイフィアは、少しだけ目元を緩めて。
「あなたなら、大丈夫。自分の足で選んだ道でしょう」
「はい」
ガロンは、何も言わず、ただノアの肩を、一度だけ強く叩いた。
アルトは、軽く手を上げた。
「困ったら、いつでも王都に顔を出せ。伝手は、ちゃんと生きてる」
最後に、ノアはセレスの前に立った。
「――セレスさん」
「なんだ」
「リンを、絶対に連れ戻してください。私も、必ず何か持って帰ります」
「ああ。約束する」
セレスは、短く頷いた。
「――行ってこい」
「はい」
ノアは、木彫りの鳥を、もう一度だけ強く握りしめた。
それから、南の道へと、迷いのない足取りで踏み出した。
振り返ることはなかった。だが、遠ざかる背中は、これまで見た中で、一番まっすぐに伸びていた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
やがて、セレスが、王都へ続く道の方を向いた。
「――行くぞ」
その声に、皆が頷いた。
一人減った隊列が、王都を目指して歩き出す。
誰かが欠けた場所の空白は、まだ埋まらない。だが、それは寂しさだけの空白ではなかった。
セレスは、アルトの懐にしまわれたままの、あの白い羽のことを思い返していた。切り口の鋭さが、まだ目に焼き付いていた。
(――誰かが、見てる)
視線は、まだ消えていない。だが、不思議と、恐怖だけではない何かも、その中に混じっている気がした。
空を見上げると、遠くの木立の上を、一羽の白い鳥が横切っていった。
偶然かどうかは、分からなかった。
それでも、セレスは、その姿を、しばらく目で追い続けていた。
第百一話「白い鳥、飛び立つ」をお読みいただき、ありがとうございます。
第九十三話で出した木彫りの鳥、第九十四話でのガロンの一言、第九十六話でのノア自身の言葉。ここまで積んできたものを、正面から回収するつもりで書きました。旅立ちを、リン奪還という進行中の目的と対立させず、同じ方向を向いた選択として描きたかったのが、今回いちばん意識した点です。
最後に出てきた白い羽、まだ何なのかは明かしません。少しずつ、正体を追っていきます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価でも応援してもらえると嬉しいです!




