第8話 その言葉に、救われた
少しだけ読むつもりだった。
翌朝も仕事がある。体は鉛のように重く、そもそも小説を読む習慣もない。
それでも彼は、机の上に置きっぱなしにしていた本を手に取り、続きのページを開いた。
物語の冒頭、灯台守は毎晩同じ時間に、黙々と灯りをつける。
嵐の夜も、凪の夜も。
海を行く船乗りたちは、その光を当然のものとして受け取り、誰一人、灯台守の名前を知らない。
感謝の言葉が届くこともない。
彼はその設定に、なぜか強く引かれた。
誰にも気づかれなくても、必要な仕事はある。
それはまさに、会社での自分のことだと思った。
責任ある立場を任され、常に結果を求められている。
部下のミスをカバーし、取引先との調整に走り回っている。
その苦労を、誰もわかってくれない。
物語の中で灯台守が「今日も誰かのために灯りをつけよう」と海を見つめる場面を読み、彼は少しだけ胸が軽くなった。
やっぱり、俺が頑張るしかないんだ。
この段階では、彼はまだ物語を自分に都合よく、自分が「照らす側」であると信じたまま読んでいた。
本を閉じ、電気を消す。
だが深夜になっても、眠りは訪れなかった。
目を閉じると、暗闇の中に一節が浮かび上がってくる。
『灯りがあることに慣れた人は、誰が火を守っているのかを忘れる』
その言葉が、なぜか胸の奥をざわつかせた。
部下たちの視線。取引先の硬い表情。
そして一瞬、かつて自分の話を黙って聞いていた彼女の顔が浮かんだ。
だが彼はすぐに首を振り、その残像を打ち消した。
これは仕事の話だ。
あいつとは関係ない。
翌日、その言葉を裏付けるように、問題が起きた。
保留になっていた取引先との契約が、正式に見送られたのだ。
会議室に呼び出され、上司から厳しく責任を問われる。
「君は、自分が正しいと説明することばかりで、相手が何を求めているか見ていない」
反論の言葉は、一つも出てこなかった。
数字は合っていた。理屈も通っていた。
それでも、相手が本当に欲しかったのは、不安を先に受け止めてもらうことだったのだと、今になって思う。
その夜、追い打ちをかけるように、部下の一人から異動希望が出ていることを知らされた。
理由を尋ねると、こう答えたという。
「ここでは、話をしても届かないからです」
その言葉に、婚約を解消したあの夜の、彼女の静かな諦めの表情が重なった。
帰宅した彼は、電気だけをつけて、食事も取らずに椅子に沈み込んだ。
いつもなら、挽回のために仕事の資料を開くところだ。
しかしこの夜、彼は吸い寄せられるように『名もない灯台守』を手に取った。
続きを読み進めると、物語の中でも灯台守は少しずつ壊れ始めていた。
誰かのために灯りをつけ続けながら、心の奥で、こう願っている。
『一度くらい、誰かに「今日は休んでいい」と言ってほしかった』
彼はページをめくる手を止めた。
息が、うまく吸えなかった。
自分は強いと思っていた。
誰かに頼る必要などない、一人で完璧にこなせると思っていた。
だが本当は、評価されたかった。
失敗を責められたくなかった。
自分にも弱い部分があると、誰かに認めてほしかった。
何も考えずに、ただ休みたかった。
そんな願いを、物語が代わりに言葉にしていく。
『強い人とは、倒れない人ではない。倒れた夜に、自分のための灯りを探せる人だ』
彼はその一文を、何度も読み返した。
泣くつもりなど、まったくなかった。
仕事で失敗しても泣かなかった。
婚約を解消したときも、自分の選択は正しいと信じていたから、涙など出なかった。
それなのに、知らない作家の物語の前で、視界が静かににじんでいく。
誰にも見られていない部屋で、彼はようやく、自分が苦しかったことを認めた。
声は出なかった。
ただ、頬を伝った涙が一粒、ページの端に落ちて、小さな跡を残した。
物語は終盤に向かっていた。
灯台守は、自分の存在に誰も気づかないことに疲れ果て、灯りを消そうとする。
しかし最後の瞬間、遠い海に一隻の船影が見える。
また誰かのために、自分を削って灯すのか。
それとも、自分を守るために消すのか。
灯台守は迷い、そして、船のためではなく、自分の部屋に小さな灯りをつけた。
『海を照らさなくても、私はここにいる』
その一文で、彼は本を閉じた。閉じなければならなかった。
それ以上読み進めたら、自分の中の何かを、取り返しのつかない形で認めてしまう気がしたから。
翌朝。彼は鳴り響く目覚まし時計を、いつもより早く止めた。
いつもの彼なら、どれだけ体調が悪くても、無理をして出社していた。
休むことは、逃げることだと思っていたからだ。
しかし、昨夜の一節が、頭の中に残っていた。
『海を照らさなくても、私はここにいる』
彼はスマホを手に取り、会社に連絡を入れた。
「申し訳ありません。今日は、休ませてください」
電話を切ったあと、罪悪感が波のように押し寄せてきた。
サボりだ。
逃げだ。
自分がいなければ回らないはずだ。
そんな声が、頭の中で次々と鳴った。
だが、世界は壊れなかった。
会社は動いた。
誰かが対応した。
彼が一日いなくても、すべては終わらなかった。
昼近くまで眠り、冷めたコーヒーを一口飲んでから、彼はもう一度、最初のページから本を開いた。
今度は、灯台守を自分ではなく、別の「誰か」として読んでみる。
すると、見え方がまるで変わった。
灯台守の細やかな気遣い。
船乗りたちの無自覚。
何も言わずに支え続ける苦しさ。
灯りが消えて初めて、その存在の大きさに気づく人々。
胸の奥に、薄い痛みが広がった。
彼女の姿が、また浮かぶ。
彼が仕事の愚痴をこぼすと、彼女はいつも「それは大変だったね」と受け止めてくれた。
大事な商談の前には、「今日は相手の話を先に聞いた方がいいかも」と言った。
体調が悪そうなときは、「休むのも仕事だよ」と伝えていた。
彼はそのたびに、「心配しすぎだ」「君は仕事を知らないから」と、その言葉を軽くあしらっていた。
彼女は、あのとき、何をしていたのだろう。
まだ、はっきりとした後悔ではない。
ただ、初めて浮かんだ疑問だった。
彼は本の巻末、著者紹介のページを見た。
『灯野しずく 本作がデビュー作。人の心に残る、小さな痛みと再生を描く』
顔写真も、本名も、詳しい経歴もない。
彼はスマホで「灯野しずく」と検索した。
投稿サイトのページ、出版社の紹介、数え切れないほどの読者の感想が並んでいる。
『この本に救われました』
『自分のために生きてもいいと思えました』
『灯野しずく先生の次回作を待っています』
自分だけではなかった。
この名もない光に救われた人間が、こんなにもたくさんいる。
彼は投稿サイトの作者ページを開いた。
感想を書く習慣など、一度もない。
入力欄に文字を打っては、消す。
『面白かったです』
それだけでは、到底足りなかった。
何度も書き直し、最終的に送った感想は、こうなった。
『この本を読むまで、休むことは逃げることだと思っていました。でも、一日だけ自分のために灯りをつけてもいいのだと思えました。海を照らさなくても、私はここにいる。あの一文に、救われました。あなたの物語に救われました。次の作品も、必ず読みます』
匿名のアカウント名で送ったその感想が、誰の手から生まれた物語への返信なのか、作者に伝わることはない。
彼はそう思っていた。
――同じ日の午後、私は出版社の会議室で、改稿作業の合間にスマホの通知を開いた。新しい感想が一件、届いている。
『あなたの物語に救われました』
しばらく、その一文を見つめる。
第三話で、最初の読者からもらった言葉と重なった。
あの夜、たった一つのブックマークにすがりついていた私が書いた物語が、また誰かの夜を照らしたらしい。
「どうしました?」
佐伯が、資料から顔を上げて聞いた。
「いえ……また一人、届いたみたいです」
私は微笑んで、スマホを伏せた。
それが、かつて私の言葉を「残らない」と切り捨てた彼からのものだとは、もちろん知る由もなかった。
その夜、彼の部屋の机には、仕事の資料が広げられたままだった。
しかし『名もない灯台守』は、そこにはなかった。
本は、枕元に置かれていた。
彼は眠る前に、ページの端に小さな跡が残ったその本を開き、好きな一節をもう一度だけ読んだ。
『海を照らさなくても、私はここにいる』
その夜、彼は久しぶりに、深く眠れた。
彼を救った言葉が、自分が捨てた人の傷から生まれたものだと、彼はまだ知らなかった。
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