第7話 本屋の片隅で
見本誌が入った段ボール箱が届いたのは、発売日の一週間前だった。
テープをカッターで切り、緩衝材をよけると、真新しい本が十冊、きれいに重なっていた。
一番上の一冊を、両手でそっと持ち上げる。
表紙には、薄明かりの中に立つ海辺の灯台と、暗い海が描かれている。
帯には、佐伯が考えてくれた一行。
『誰かのために灯り続けたあなたへ。』
その下に、はっきりと著者名がある。
灯野しずく。
画面の中にしかなかった言葉が、紙の重さと、インクの匂いを持って、今、目の前にある。
私はしばらく、その本に手を伸ばせなかった。
指先を近づけて、また引く。
怖いわけではないのに、うまく触れられなかった。
スマホが震え、佐伯からメッセージが届く。
『無事、見本が届きました。発売まであと一週間です。ここまで本当にお疲れさまでした』
ようやく本を一冊、両手で抱きしめる。
思っていたより、ずっと重かった。
うれしい。
ここまで来られたことが、まだ信じられないくらいうれしい。
それでも、その喜びのすぐ隣に、冷たいものが這い上がってくる。
誰にも届かなかったらどうしよう。
読んだ人に、期待外れだと思われたらどうしよう。
その夜から、私は本屋のサイトを何度も確認するようになった。
予約数は表示されない。
売れるかどうかも、もちろんわからない。
それでも、「近刊」の欄に自分のタイトルが並んでいるのを見るたび、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
職場では、いつも通りに過ごした。
ある昼休み、給湯室で美咲がスマホの画面を見ながら言った。
「そういえば、灯野しずくって作家、最近少し話題らしいよ」
持っていたコーヒーカップを、危うく落としそうになる。
「へえ。どんな話なんですか?」
できるだけ、いつもの声で聞き返した。
「灯台守の話らしいんだけど。静かだけどすごく泣けるって、妹が言ってた」
「……そうなんですね」
「なんか顔赤いよ?大丈夫?」
「ううん、コーヒーがちょっと熱くて」
私はカップに口をつけ、誰にも見えないところで、少しだけ笑った。
灯野しずくは、もう私よりも先に、知らない誰かの会話の中を歩き始めていた。
――同じ頃、彼の仕事は、目に見えないところから少しずつ崩れ始めていた。
重要な取引先との打ち合わせ。
彼は数字を整えた資料を広げ、いつものように堂々と説明した。
提案内容も、他社より優れているはずだった。
それでも、相手の担当者の表情は、話が進むほどに硬くなっていった。
「……内容はわかりました。少し社内で検討させてください」
言葉を濁され、打ち合わせはそのまま終わった。
何が引っかかったのか、彼にはわからない。
以前なら、帰りの車で愚痴をこぼしたとき、彼女が言っていたはずだ。
『その言い方だと、相手は責められているように感じるかも。数字より先に、相手が何を心配しているか、聞いてみたら?』
当時は、的外れな世話焼きだと思っていた。
仕事の現場を知らない人間の、優しいだけの意見だと。
だが今思えば、彼女の言葉のとおりに言い方を変えたときだけ、物事は驚くほどスムーズに進んでいた。
彼は、自分がいつも会社のために、部下のために、そしてかつては彼女のためにも、先頭に立って引っ張ってきたのだと信じていた。
今回もまた、自分の正論で相手を説得しようとして、無意識のうちに相手を怒らせていたことに、彼はまだ気づいていない。
契約は保留になった。
苛立ちを抱えたまま会社に戻ると、部下の一人が遠慮がちに口を開いた。
「最近、あまり話を聞いてくれませんよね」
「結果が出ていない人間の言い訳を聞く時間はない」
思ったより強い声が出た。
部下はそれ以上何も言わず、ただ黙った。
その表情に、彼は一瞬だけ引っかかる。
婚約を解消したあの日、彼女も同じように、何も言わずに静かだった。
しかし、すぐに首を振って、考えるのをやめた。
あれとは関係ない。
夜、コンビニの袋を提げて帰宅する。
部屋は散らかっていた。
脱いだままのスーツ、積み上がった郵便物、冷蔵庫には期限の切れた調味料。
以前から彼女が片づけていたわけではない。
ただ、彼女が来る日は、少しだけ部屋を整えようと思えた。
一緒に食事をする約束があった。
今日あったことを、最後まで黙って聞いてくれる人がいた。
その生活の輪郭が、今はどこにもない。
彼はスマホを手に取り、連絡先を開く。
彼女の名前の上で、指が止まる。
今さら、何を話すんだ。
画面を閉じた。
ベッドに入っても眠れなかった。
取引先の硬い表情。
部下の沈黙。
散らかった暗い部屋。
同じ場面が、何度も頭の中で繰り返される。
俺は一人でもやれる。
これくらい、誰にでもある。
そう言い聞かせても、翌朝は、アラームより早く目が覚めた。
数日後、仕事帰りに雨が降った。
傘は持っていない。
駅までの道の途中に、小さな本屋があった。
彼は雨宿りのつもりで、ガラス戸を押した。
店内は静かだった。
外の雨音が、一枚のガラスの向こうに遠ざかる。
特に目的もなく、棚の間を歩いた。
新刊台の端に、一冊の本があった。
派手な表紙ではない。
深い青の中に、岬の先端に立つ灯台。
薄明かりが、暗い海面に細く伸びている。
『名もない灯台守』
帯には、こう書かれていた。
『誰かのために灯り続けたあなたへ。』
彼は足を止めた。
その言葉が、なぜか自分に向けられている気がした。
自分はいつも、誰かのために灯を灯してきた人間だ。
会社のために、部下のために、かつては彼女のためにも。
そう信じてきたから。
普段、小説はほとんど読まない。
まして、こんな静かな装丁の物語を選ぶことはない。
それでも、彼は本を手に取った。
裏表紙のあらすじを読む。
『誰にも知られず船を照らし続けた灯台守が、ある夜、自分のために灯りをつける物語』
「ずいぶん、綺麗ごとだな」
小さく笑ってみせる。
それでも、棚に戻せなかった。
表紙の著者名を確認する。
灯野しずく。
知らない名前だった。
もちろん、それが誰なのか、彼が知る由もない。
それでも、なぜかその名前を、もう一度目で追った。
レジに持っていくと、店員が帯を見て言った。
「この本、最近よく出ているんですよ」
「そうなんですか」
自分だけが偶然見つけたと思っていた本が、すでに誰かに読まれている。
少し意外に思いながら、紙袋を受け取った。
外では、まだ雨が降っていた。
同じ日の夕方、私は別の街の本屋の前に立っていた。
文芸書のコーナーに、自分の本が並んでいる。
少し離れた棚の陰から、誰かが手を伸ばしてくれないかと、しばらく見ていた。
三十分経っても、誰も足を止めない。
少しだけ、胸が冷えた。
「本は、作者の見えないところで読者に出会います」
隣に立っていた佐伯が、静かに言った。
「今日ここで動かなくても、今夜どこかで、誰かが読み始めているかもしれません」
私はうなずいた。信じるしかなかった。
まさにその頃、雨の街の本屋で、一冊の本が、私の知らない誰かの手に渡っていたことなど、私には知る由もなかった。
帰宅した彼は、食事も取らずに、買った本を机の上に置いた。
すぐに読むつもりはなかった。
それでも、何となくビニールを外し、表紙を開く。
最初の一文。
『灯りをつけるたび、私は少しずつ、誰のものでもなくなっていった。』
彼の指が、止まった。
なぜかは、わからない。
綺麗ごとだと思っていたはずなのに、その一文だけが、普段は触れない場所に、静かに触れてきた。
ページを閉じようとして、できなかった。
彼はまだ知らなかった。
今夜開いた物語が、自分の人生を静かに追いかけてくることを。
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