第6話 私の物語が、本になる
葦原書房の佐伯律から、メールが届いたのは、あのカフェでの面談から四日後のことだった。
帰りの電車の中で通知に気づき、家に着くなり、はやる気持ちを抑えられずにパソコンを開いた。
添付されていたのは、『名もない灯台守』の書籍化企画書だった。
書籍タイトル案。
想定する読者層。
加筆修正の方向性。
発売までのおおまかなスケジュール。
そして最後のページには、私の文章の魅力について、佐伯自身の言葉で丁寧にまとめられた一節があった。
何度も読み返す。
なかでも、目が離せなくなった一文があった。
『灯野しずく先生の作品には、声を上げられない人の痛みを、言葉に変える力があります』
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
誰かにそこまで言ってもらえたことは、今までの人生で一度もなかった気がした。
けれど、その熱のすぐ隣に、冷たいものが這い上がってくる。
本当に、私のことだろうか。
うれしさより先に、疑いのほうが大きくなっていった。
◇
翌日、職場ではいつも通りに過ごした。
給湯室でコーヒーを注いでいると、美咲が明るい声で聞いてくる。
「そういえば今度の連休、どうするの?」
「少し、書き物をするくらいかな」
とだけ答えた。
美咲は「へえ、意外」と笑って、それ以上は踏み込んでこなかった。
ほっとする。
誰かに話した瞬間、この脆い夢が音を立てて崩れてしまいそうで、怖かった。
心の奥には、まだあの言葉が沈んでいる。
『君には、人に誇れるものがない』
『君の言葉は、優しすぎて残らない』
それは、婚約を破棄されたあの夜だけの言葉ではなかった。
二年間の付き合いの中で、「それは当たり前だよ」「誰でもできることだから」と、笑いながら何度も繰り返された、小さな否定の積み重ねだった。
企画書に書かれた評価よりも、その積み重ねのほうを、私はまだ深く信じてしまっている。
◇
夜、パソコンを開き、『名もない灯台守』を最初から読み返してみた。
すると、同じ表現の重複や、展開の遅さ、説明の足りない場面ばかりが次々と目についた。
読者から届いた感想よりも、自分の未熟さのほうが、今はずっと大きく見える。
こんなものを、本にしていいはずがない。
私はメールの返信画面を開いた。
『大変ありがたいお話ですが、私にはまだ力が及ばず、今回は辞退させていただきたく……』
そこまで書いて、指が止まる。
送信ボタンの上にカーソルを置いたまま、どうしても押せなかった。
迷っている最中、投稿サイトから通知が入った。
第三話で初めて感想をくれた、あの「通りすがりの読者」からだった。
『完結、おめでとうございます。灯台守が最後に、自分のための灯りをつけた場面が好きです。私も、誰かのためだけではなく、自分のために生きてみようと思いました。この物語を書いてくださって、本当にありがとうございました』
画面を見つめながら、気づく。
自分が未熟だと思っている物語は、すでに誰かの人生に届いている。
完璧だったから届いたのではない。
痛みを隠さずに書いたから、届いたのだ。
辞退のメールは、そのまま消した。
◇
数日後、私は出版社の小さな会議室で、佐伯と向かい合っていた。
テーブルの上のお茶が、静かに冷めていく。
「私には、本を出すほどの才能はないと思います」
席についてすぐ、そう言った。
佐伯はすぐには否定せず、静かに次の言葉を待った。
「以前、私の言葉は誰の心にも残らないと言われたことがあります。今でも、そちらのほうを信じてしまうんです」
誰に言われたかは口にしなかった。
それでも佐伯は、深く頷いてから答えた。
「残るかどうかを決めるのは、その人一人ではありません」
佐伯は、印刷された読者の感想を数枚、テーブルに並べた。
見覚えのある言葉が並んでいる。
「もう、残っています。あなたがご自身を信じられなくても、読者の中には確かに残っているんです」
「怖いなら、断っても構いません」と佐伯は続けた。
「ただ、才能がないから断るのなら、私は反対します」
自分には才能がないかもしれない。
失敗するかもしれない。
酷評されるかもしれない。
それでも、自分の可能性を、彼の言葉だけで閉じてしまうのは嫌だった。
「書籍化のお話、受けさせてください」
佐伯は派手に喜ばず、ただ静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に届けましょう」
◇
後日届いた契約書には、ペンネームではなく本名を書く欄があった。
自分の名前をボールペンで書き入れながら、不思議な気持ちになる。
灯野しずくは、私から生まれた。
なら、私まで何もない人間ではなかったのかもしれない。
契約したからといって、すぐに本になるわけではない。
佐伯から届いた最初の改稿案には、赤字がびっしり入っていた。
一瞬、すべてを否定されたように感じて身構えたが、指摘のひとつひとつは、文章を傷つけるためのものではなかった。
灯台守が初めて本音を漏らす場面には、こう書かれていた。
『ここは説明を増やすのではなく、灯りを消そうとした手の動きで見せたいです』
指摘の通りに書き直してみると、その場面は前よりもずっと静かに、深く伝わるものになった。
自分の言葉を、こんなふうに大切に扱ってもらう経験を、私は初めてしていた。
◇
――同じ頃、彼の周りでは、小さな綻びが静かに増えていた。
大事な取引先への連絡漏れ。
部下たちの間に溜まる不満。
無理な予定の重複。
慢性的な体調不良。
ちょっとした人間関係の行き違い。
以前なら、問題になる前に片づいていたはずのことだった。
私が直接彼の仕事を手伝っていたわけではない。
ただ、彼のまとまらない話を聞き、頭の中の予定を整理し、彼が苛立つ前に言葉を選んでいた。
彼は、その役割にまったく気づいていなかった。
「最近、余裕ないですね」
同僚に言われて、彼は苛立った声で返す。
「少し忙しいだけだ」
深夜に帰宅すると、部屋は暗く、冷え切っていた。
以前なら届いていたはずの「今日は遅かったね。ちゃんと食べた?」というメッセージも、今はない。
スマホを確認しても、仕事の通知しか並んでいなかった。
それでも彼は思う。
別れたこととは関係ない。俺は一人でも問題なくやれる。
まだ、そう信じていた。
私の机の上には、本名の書かれた契約書と、赤字の入った改稿原稿が並んでいる。
私はパソコンを開き、新しいページに、また一行を積み重ねていく。
私の物語が本になると決まった夜、彼の世界では、まだ名もない綻びが静かに広がり始めていた。
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