第5話 あなたの物語を、もっと届けたい
朝、目を覚ましてすぐに手を伸ばすのは、もうスマホの通知欄ではなく、投稿サイトのアプリだった。
彼からの連絡を待っていた頃の癖は、いつの間にか跡形もなく消えていた。
画面を開くと、ヒューマンドラマ部門の日間ランキングが、昨日より少しだけ順位を上げていた。
閲覧数も、ブックマークの数も、静かに、けれど確かに増え続けている。
けれど、私が本当に見たいのは、順位でも数字でもなかった。
通知の一覧から「感想」のタブを開き、届いた言葉を上から一つずつ読んでいく。
まるで、誰かからの手紙を開封するときのように。
その中に、ひときわ深く胸に沈むものがあった。
『仕事で毎日怒られています。何をやっても駄目で、自分なんていない方がいいんじゃないかと思うことがあります。でも、灯台守が「今日も灯りをつけよう」と言ったところで、不意に泣いてしまいました。 私も、今日はちゃんと出勤します』
指先が、画面の上で止まる。
灯台守に「今日も灯りをつけよう」と言わせたのは、誰かを励ますためではなかった。
あの夜、暗い部屋の中で、私自身に言い聞かせていた言葉だった。
それが、顔も名前も知らない誰かの朝を、一歩だけ前に押し出していた。
私はゆっくりとパソコンを閉じ、声を出さずに泣いた。
彼に「残らない」と言われた言葉が、こんな形で残っていた。
仕事に行く支度をしながら、涙の跡が残っていないか、鏡を何度も確認した。
会社では、誰もこのことを知らない。だから今日も、いつも通りの顔で、いつも通りの一日を過ごした。
◇
夜、部屋に戻ってもう一度画面を開くと、見慣れない通知のマークが、メッセージボックスに一件だけついていた。
感想欄ではない。差出人の名前は「佐伯律」。
件名には「ご相談があります」とだけ書かれている。
(営業かな)
軽い気持ちで開いた。けれど、その一文目で、指が止まった。
『初めまして。葦原書房、文芸編集部の佐伯律と申します。灯野しずく先生の『名もない灯台守』を最後まで拝読いたしました。大変僭越ながら、一度お話をさせていただけないでしょうか。ご都合のよろしい日時をお知らせいただければ、場所はどちらへでも伺います』
読み終えて、しばらく動けなかった。
慌ててスマホで「葦原書房」「佐伯律」と検索する。
実在する中堅出版社の公式サイトが表示され、文芸編集部のスタッフ紹介ページに、同じ名前があった。
本物だ。詐欺じゃない。
心臓が、急に速く鳴り始めた。
◇
――その数日前、葦原書房の編集部で、佐伯律はパソコンのモニターを食い入るように見つめていた。
まだ三十代前半、新人とベテランのあいだぐらいの年次。
新人発掘のために投稿サイトを巡回するのは、彼にとって半ば日課のようなものだった。
派手な展開や、目を引くタイトルの作品はいくらでもある。
それでも、何かが違う、という感覚が、ずっと胸の底に引っかかっていた。
そんな中で見つけたのが『名もない灯台守』だった。
ランキングの、決して目立たない場所に、ひっそりと置かれていた一つのタイトル。
第一話を読み、第二話を読み進めるうちに、佐伯は思わず背筋を正していた。
この文章は、誰かを泣かせようとしていない。
泣かせようとしていないのに、泣ける。
感動させようとしていないのに、胸に刺さる。
計算のない言葉だから、計算のない場所に届く。
「絶対に、この人を担当したい」
佐伯は迷うことなく、メッセージの作成画面を開いていた。
返信の文面を、私は七回近く書き直した。
丁寧すぎれば距離ができる気がした。砕けすぎれば失礼になる気がした。
結局、一番短くて、一番正直な言葉を選んで送った。
『ご連絡ありがとうございます。 灯野しずくです。 こんなふうに言っていただける日が来るとは思っていませんでした。 よろしければ、一度お話を伺えたらと思います』
◇
数日後、出版社の近くのカフェで会うことになった。
待ち合わせの十五分前から、私は落ち着かない気持ちで座っていた。
何を着ればいいのかわからず、結局きれいめのワンピースを選んだ。
テーブルの上、グラスの氷がカランと音を立てて溶ける。
約束の時間ちょうどに、ドアが開いた。
三十代前半くらいの男性が、店員に何か告げてから、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「初めまして。灯野しずく先生」
思わず、笑ってしまう。
「先生じゃありません」
「私にとっては先生です。あなたの物語に教えられた読者の一人なので」
佐伯はそう言って、向かいの席に腰を下ろした。
ランキングの話も、PVの話も、彼は一言もしなかった。
カップをソーサーに置き、少しだけ真剣な色を帯びた瞳で、静かに言った。
「灯台守は、あなた自身ですか」
心臓が、大きく跳ねた。
すぐには答えられなかった。
膝の上で、両手を強く握りしめる。
「……違っていたらすみません」と、彼は責めるでもなく、寄り添うような声で続けた。
「でも、誰かを照らし続けた人にしか、あの文章は書けません。誰にも気づかれない場所で、それでも光を絶やさなかった人の祈りが、あの物語には宿っています」
視界が、じわりとにじんだ。優しいだけ。
残らない。
そう言って私を切り捨てた人の言葉が、ずっと胸の奥に刺さったままだった。
それなのに、目の前の、初めて会ったこの人は、私の言葉の奥にあったものを、まっすぐに見つけてくれた。
私は、少しだけ話した。
婚約破棄されたこと。
優しいだけと言われて、自分が空っぽになったこと。
その痛みをどうしても捨てきれなくて、気づけば物語を書いていたこと。
全部ではない。
彼の名前も、詳しい経緯も口にしなかった。
それでも佐伯は、一度も遮ることなく、最後まで静かに頷きながら聞いていた。
「その空っぽから、あの物語が生まれたんですね」
「……はい、多分」
「だから、届くんだと思います」
書籍化の話は、その場では決まらなかった。
「持ち帰って、社内で改めて検討させてください」
佐伯はそう言い、私もすぐには頷けなかった。
責任の重さも、自信のなさも、まだ消えていなかったから。
それでも、別れ際に交わした握手の感触だけは、今もはっきりと指先に残っている。
◇
カフェを出ると、夕方の光が街をオレンジ色に染めていた。
まだ半分くらいは夢の中にいるような気がする。
書籍化が決まったわけでも、何か大きな成功を手にしたわけでもない。
ただ「お話をしましょう」と言われただけだ。
それでも。
今日は、彼に認められなくても、知らない誰かに認めてもらえた日だった。
家に帰り、引き出しの奥から古いノートを取り出す。
表紙の角が少し曲がった、あのノート。
最初のページを開くと、少し幼い、昔の自分の字がある。
『いつか、本を出したい』
私はペンを取り、その文字のすぐ横に、ゆっくりと書き足した。
『今日、少しだけ近づいた』
あの日閉じた夢は、誰にも気づかれないまま、静かにもう一度ページをめくった。
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