第4話 名前のない光
婚約破棄から、三週間が経っていた。
この三週間で、私の周囲の何かが劇的に変わったわけではない。
朝になれば同じ時間にアラームが鳴り、スーツに着替えて、満員の通勤電車に揺られる。
会社に着けば、いつも通りにパソコンを立ち上げ、同僚と給湯室で天気の話をする。
誰も、私の左手の薬指から指輪が消えたことにも、数か月先の未来が白紙になったことにも気づいていない。
世界は残酷なほど平然と、日常が過ぎていた。
ただ一つだけ、確かに変わったことがあった。
帰宅してから眠るまでの、夜の時間の使い方だった。
以前の私は、その時間のほとんどを彼のために使っていた。
彼が今仕事のどの段階にいるかを想像し、邪魔にならないタイミングで「お疲れさま」と送る。
週末に会う店を探し、彼の好きなメニューがあるか確認する。
彼が黙っていれば、何か気に障ることをしたかと振り返る。
今思えば、あの時間の中に、私自身のための何かは、ほとんどなかった。
今はその同じ時間に、灯台守の続きを書いている。
誰かのための時間が、自分のための時間に変わった。
それだけのことなのに、夜の部屋の空気は以前よりずっと静かで、深呼吸がしやすかった。
◇
通勤電車の中では、吊り革につかまりながら、スマホのメモ帳を開くのが日課になった。
『灯台守は、自分の名前を誰にも名乗ったことがない。船乗りたちが必要としているのは光であって、光を放つ人間の名前ではないからだ』
そんな断片が、揺れる車内でふと浮かんでは、消えないうちに文字にして留める。
隣に立っているサラリーマンも、灯野しずくという名前だけが知っている秘密を、私が胸の中に抱えているとは思いもしないだろう。
それがなぜか、心地よかった。
昼休みには、会議室の隅でコンビニのサンドイッチをかじりながら、午後の展開を頭の中で組み立てる。
灯台守は次の嵐をどう越えるのか。
誰にも気づかれないまま、それでも灯りを消さない理由は何なのか。
仕事のメールの返信よりも、灯台守が海を見上げる角度のほうを真剣に考えている自分が、少しおかしくて、少し愛おしかった。
帰宅すればすぐにパソコンを開く。
かつては玄関で靴も脱がずに座り込んでいたのに、今は足早に部屋を通り過ぎ、まっすぐに続きを書く。
彼と行くはずだった式場見学や、指輪のサイズ直しのために空けていた時間は、今は物語を書く時間に置き換わっていた。
消してしまった予定の白いマス目を、灯台守の物語がひとつずつ、静かに埋めていく。
数字も、少しずつ増えていった。
閲覧数は十七から八十三になり、一週間が過ぎるころには二百十を超えた。
ブックマークは「一」から「四」、そして「十一」に。
感想も、最初の一つから三つに増えた。
派手な数字ではない。
それでも、その一つひとつの向こう側に、誰かの夜がある気がした。
仕事を終えて疲れた体でソファに座り、スマホを開いて灯台守を読んでいる誰かの姿が、数字の奥にうっすらと透けて見える気がした。
『灯台守の気持ちが、痛いほどわかります』
『優しい人ほど、誰にも気づかれずに疲れていくんですね。読んでいて涙が出ました』
『続きが怖いけど、読みたいです』
読者が、物語の中に自分自身の痛みを重ねている。
私が彼に宛てていた、優しすぎて残らないはずの言葉たちが、灯台守という形を借りて、見知らぬ誰かの心に届き、残ろうとしている。
彼が言った「残らない」という言葉が、今は少し違う形で聞こえる。
残らないのではなかった。
残る場所を、間違えていただけだったのかもしれない。
◇
ある夜、灯台守の続きを書きながら、私はふと手を止めた。
嵐を越えた翌朝、灯台守は岬の先端に立って、遠ざかっていく船の背中を見ている。
あの船は、夜通し灯していたこの灯りを頼りに暗礁を避けたのだろうか。
それとも、最新の海図だけを信じて進んだのだろうか。
灯台守には、それを確かめる術がない。
ありがとうと言われることもない。
それでも、今夜もまた灯りをつける。誰かが見ていようといまいと関係なく。
書きながら、私は思う。これは灯台守の話ではない。
私自身の話だ。
彼の飲み物を選び、疲れを見抜き、愚痴を聞く準備をしてきた、あの頃の私の話。
でも今は、それだけではない。
誰に読まれる保証がなくても、こうして毎晩パソコンに向かっている、今の私自身の話でもあるのだ。
その小さな実感は、生活の中にも、少しずつ確かな変化をもたらしていた。
ある日の午後、先輩がファイルの束をデスクに置いた。
「ごめん、このデータ入力、今日中にお願いできる? 急ぎの案件が入っちゃってさ」
悪びれる様子のない声だった。
以前の私なら、自分の仕事を後回しにしてでも、二つ返事で引き受けていた。
断ることで嫌われるのが怖かったし、便利な人間でいることが、自分の居場所を守る唯一の手段だと信じて疑わなかったから。
でも、今日は違った。
「すみません。今日は自分の仕事を先に終わらせたいので」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。先輩は少し目を丸くして、
「あ、そう、ごめんね」
とだけ言って、別の同僚のところへ歩いていった。
心臓が、しばらく速く鳴っていた。
それでも、周りの空気は何も変わらなかった。
別の部署から笑い声が聞こえ、コピー機の音がしている。
世界は壊れなかった。
私はただ、自分の時間をひとつ守っただけだった。
それが、灯台守が嵐の中でも灯りを消さなかった夜に、少し似ていると思った。
◇
週末、大学時代の友人からLINEが届いた。
『そういえば、彼、最近忙しそうだね。SNSでずっと仕事の話ばっかりしてるよ。大丈夫なのかな』
画面の中の「彼」という文字に、胸の奥がきゅっと縮む。
指が、二年間の癖で「大丈夫?」と打ちかける。
栄養ドリンクを買って、部屋の前に置いておこうか。
そんな考えまで、一瞬頭をよぎった。二年間で染みついた習慣というのは、そう簡単には消えてくれない。
でも、すべてバックスペースで消した。
私はもう、彼の隣に立つ人間ではない。
彼の疲れを見つけて、先回りして、補い続ける役目は、もう終わった。
私が照らさなくても、彼は歩いていけるはずだから。
スマホをそっと伏せて、退社後に自分のために買ったココアを一口飲んでから、パソコンに向かった。
灯台守の続きを書くために。
◇
物語を書き始めて三週間ほど経ったころ、投稿サイトのトップページを何気なく眺めていて、見覚えのある文字を見つけた。
ジャンル別、ヒューマンドラマ部門の日間ランキング、二十三位。
『名もない灯台守』 灯野しずく
自分の名前ではない名前が、誰かの目に触れる場所に、静かに並んでいる。
それは、私という人間が、彼なしでもこの世界に存在していいのだと、小さな証明をもらったような気分だった。
私はスクリーンショットを撮った。
誰かに送るわけでもないのに、残しておきたかった。
その夜、感想欄に新しい一件が届いた。
『灯野しずくさんの言葉に、初めて自分の気持ちを言葉にすることができました。ありがとうございます』
灯野しずくさん。
指先が、画面の上で止まる。それは私の本名ではない。
光と涙のイメージから、思いつきで選んだだけの名前だった。
それでも、画面の向こうの誰かにとって、その名前は既に紛れもない実在として、確かにそこにあった。
名前のない光だったはずの私に、知らない誰かが、初めての呼び名をくれていた。
その夜、私はしばらくその一文を眺めていた。
灯野しずく、という名前が、私よりも少しだけ先を歩き始めているような、そんな気がした。
どこかの誰かが、まだ見ぬこの名前を検索する日が来るかもしれない。
そんなことを、少しだけ想像した。
今はただ、暗闇の中で、小さな名前だけが、静かに灯り始めていた。
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