第3話 最初の感想
ブックマークの数字を、私は何度も見返していた。
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ブックマーク:1
深夜、暗い部屋の中でスマホの画面だけが明るい。
何度リロードしても、数字は変わらなかった。
間違って押されたのかもしれない。
指が滑っただけかもしれない。
朝になれば、静かに外されているかもしれない。
そう思うたびに画面を更新してしまうのに、「1」という数字が変更することはなかった。
たった一つの数字が、眠れない夜に小さく灯っていた。
その灯りに指先だけをかざすようにして、私はようやく浅い眠りに落ちた。
◇
翌朝も、世界はいつも通りに動いていた。
スーツに着替え、電車に揺られ、いつもの時間に会社へ着く。
婚約破棄されたことは、誰にも言っていない。
言葉にしてしまえば、それが本当のことになってしまう気がして。
給湯室でコーヒーを注いでいると、同期の美咲が明るい声で話しかけてきた。
「そういえば、週末って式場見学だったんじゃない? どうだった?」
心臓が、ぎゅっと縮む。
でも口角は、当たり前のように上がった。
この二年間で、笑顔を作ることだけは、誰より上手くなった気がする。
「ちょっと、予定が変わって」
「えー、そうなの? 彼氏さん忙しいんだね。結婚式の準備って女の子ばっかり大変になりがちだから、ちゃんと手伝わせなよ?」
「うん、そうだね。ありがとう」
私は笑ってごまかし、そのまま新しく入った後輩の話に水を向けた。
美咲はすぐにそちらへ乗ってくれて、ほっと息を吐く。
壊れたことを隠すのは、もう慣れてしまっていた。
可哀想な人だと思われるのも、慰められるのも、今の私には耐えられそうになかったから。
昼休み、人の少ない廊下の隅でスマホを開く。投稿ページを表示する。
閲覧数:17
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閲覧数は、昨夜より増えている。
ブックマークも、まだ外れていない。
小さく息を吐いた。なんとなく、ホッとした。
読まれた。
でも、残ったかどうかはわからない。
『君の言葉は、優しすぎて残らないんだよね』
彼の声が、昼休みのざわめきの中で鮮明に蘇る。
十七人のうちの何人が、最後まで読んでくれたのだろう。
私はスマホをバッグにしまい、午後の仕事に戻った。
その日の仕事を終えて、部屋に戻る。
夕食もそこそこに、ノートパソコンを開いた。
「名もない灯台守」の第二話を書くために。
◆◆◆
嵐を越えて港に辿り着いた船乗りたちの会話を、灯台守は偶然耳にする。
「いやあ、最新の海図のおかげで助かったよ。あれがなかったら座礁してた」
「だよな。灯台なんて、あってもなくても同じだろ」
誰一人、岬の先端で一晩中光を放ち続けていた灯りのことを、口にしなかった。
『私が照らしていたと思っていた船は、私の灯りではなく、別の何かのおかげで進んでいたらしい』
灯台守は傷つく。それでも、灯りを消せない。
もしも自分の光を頼りにしている、まだ見ぬ誰かがいたとしたら、その人を裏切ることになるかもしれないから。
◆◆◆
キーボードを打つ指が、ふと止まった。
灯台守の「消せない」という気持ちの奥に、自分の感情が透けて見える気がした。
私は、まだ怒っているのだ。
彼の言葉に。
勝手に未来を手放した彼に。
私の優しさを、最後まで都合よく信頼していた彼に。
でも、怒っていることを認めるのが怖かった。
認めた瞬間、それが本物になってしまう気がして。
だから私は、灯台守にその怒りを預けるようにして、続きを書き進めた。
短い第二話ができあがる。
投稿ボタンの前で、マウスポインタが震えた。
昨夜は「誰にも読まれないかもしれない」という怖さしかなかった。
でも今は違う怖さがある。
昨日のブックマークの「1」が外れてしまうこと。
続きを読んで、「なんだ、つまらない」と思われること。
誰にも読まれない寂しさより、誰かに読まれて失望されることの方が、怖かった。
それでも、ここで止まれば、昨夜の「1」にも、自分自身にも、嘘をつくことになる気がした。
深く息を吸って、クリックした。
シャワーを浴びて、髪を拭きながら何度もスマホを覗く。
三十分ほど過ぎたころ、通知が来た。
感想:1
心臓が跳ねる。
すぐには開けなかった。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
たかが数行の文章。
なのに今の私には、それが世界を揺らす何かの鍵のように思えた。
大丈夫。
もしひどい言葉だったとしても、私はもう、一番ひどい言葉を面と向かってぶつけられて、それでも生き延びているんだから。
ゆっくりと、感想のページを開く。
「通りすがりの読者」という名前があった。
『灯台守が灯りを消せないところで、泣きました。 私も、誰かのために頑張っているのに、誰にも気づかれないことがあります。 でも、この物語を読んで、少しだけ報われた気がしました。 続きを待っています。』
一文ずつ読むたびに、何かが胸の中に落ちてきた。
画面の向こう側に、見たこともない誰かがいる。
その人もまた、誰かのために頑張っていて、でも気づかれていないと感じていて。
それでも、私の拙い物語の中に、自分を少し重ねてくれた。
続きを待っています。
彼に一度も言われたことのない言葉だった。
私が選んできた言葉に、「続き」を求められたことなんて、今まで一度もなかった。
視界が、水の中に溶けていくようににじむ。
彼に捨てられた夜の涙は、私を空っぽにした。
でも今夜の涙は、空っぽの底に何かを残していった。
私はスマホを胸に抱きしめて、声も出さずに泣いた。
少し落ち着いてから、返信を書こうとする。
『お読みいただきありがとうございます。拙い文章ですが、このように感想をいただけて光栄です。まだまだ未熟ではありますが……』
打ってみて、すぐに消した。
誰かのメール文面をなぞったような、よそよそしい言葉。
私は、もっと正直に返したかった。
『読んでくださって、ありがとうございます。 あなたの言葉に、私も救われました。』
今度は、指が震えなかった。「救われました」と、自分のために使ったのは初めてだった。
いつも救う側にいた。支える側にいた。
誰かに救われたと言うことが、なぜか負けのような気がして、ずっと言えなかった。
でも今夜は、言えた。
パソコンを閉じようとして、手が止まる。もう十分だ、と頭は言う。
第一話と第二話を投稿して、感想までいただいた。
でも、感想の最後の一文が、何度も頭の中で反響する。
続きを待っています。
誰かが、私の言葉の続きを、待ってくれている。
私はもう一度パソコンを引き寄せて、新しいページを開いた。
「……もう一話だけ、書こう」
その夜、私は誰かに照らされながら、初めて自分のために続きを書いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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