第2話 誰にも読まれない物語
朝が来ても、世界は昨日の続きをしているだけだった。
ほとんど眠れなかった。
何度も寝返りを打つたびに、天井の木目の数だけが増えていく気がした。
カーテンの隙間から、灰色がかった光が薄く伸びている。
スマホを手に取る。
通知はない。
彼からの連絡は、一件もなかった。
わかっていたはずなのに、指はいつもの癖で彼とのトーク画面を開いていた。
最後のやり取りは、私の「お疲れさま。また明日ね」で止まっている。
「昨日はちゃんと帰れましたか?」
打ちかけて、手を止める。
もう、そんなことを心配する義務もない。
入力欄を長押しして、全部消した。
画面が、静かに白紙へ戻る。
起き上がって、洗面所で顔を洗った。
鏡の中の自分は、思ったより普通だった。
少し目が腫れているだけで、世界が終わった人間の顔には見えない。
それが、余計にどこか虚しかった。
部屋に戻って、スマホのカレンダーアプリを開く。
式場見学。
両家顔合わせ。
指輪のサイズ直し。
新居候補の内見。
ひとつずつタップして、削除する。
「この予定を削除しますか?」
というポップアップに、そのたびに「はい」を選ぶ。
式場見学、削除。
顔合わせ、削除。
指輪、削除。
新居、削除。
予定を消すだけなのに、私の数か月先の人生まで白くなっていった。
最後の予定を消したあと、カレンダーはただの白いマス目に戻っていた。
色のついた未来があった場所に、もう何も残っていない。
◇
スマホを伏せて、しばらく動けなかった。
何かをしなければという焦りに押されるように、ノートパソコンを開く。
昨夜つけたままだった画面には、たった一文だけが残っていた。
『その日、私は誰かの光でいることをやめた。』
見た瞬間、恥ずかしくなった。
何を書いているんだろう、と思う。
まるで中学生のポエムみたいで、少し痛々しい。
消してしまおうとカーソルを合わせた。
けれど、指は動かなかった。
どんなに気取っていても、その一文だけは、誰かのために選んだ言葉ではなく、昨夜の私が初めて自分のために選んだ言葉だったから。
私はブラウザを開き、昨日見つけた小説投稿サイトの登録画面に進んだ。
メールアドレス、パスワード、そしてペンネーム。
本名は使いたくなかった。
でも、まったく無関係な名前をつけるのも、どこか寂しい。
光、という言葉が頭に浮かぶ。
私は長い間、誰かの隣で静かに照らす役目を、疑いもせず引き受けてきた。
そして昨夜は、声も出さずにただ涙をこぼした。
光と、涙。
『灯野しずく』
打ち込んだ文字を見て、胸の奥が少しざわついた。
知らない誰かになりたくて選んだのに、どこかに本当の自分が混ざっている気がした。
登録を終え、投稿ページを開く。
けれど、何を書けばいいのか、まったくわからなかった。
恋愛ものを書こうとすれば、昨日の彼の声が浮かぶ。
「君は優しい。でも、それだけなんだ」。
幸せな婚約者の話を書こうとすれば、それだけで嘘になる気がした。
だったら、この痛みを、少しだけ別の形に変えてみようと思った。
海辺に立つ、古い灯台を思い浮かべる。
嵐の夜も、凪いだ朝も、誰にも感謝されないまま、ただ船を照らし続ける灯台守。
タイトルを打つ。
『名もない灯台守』
物語の中で、灯台守はある夜、ふと気づく。
『私が照らしていた船は、私の存在を知らない。』
その一文を打った瞬間、指が止まった。
これは灯台守の話ではなく、私自身の姿だった。
彼の飲み物を選び、疲れを見抜き、愚痴を聞く準備をしてきた私の。
拙い文章を、少しずつ積み重ねていく。
誤字も、単調な言い回しも気になったけれど、消さずに書き進めた。
短い第一話ができあがったころには、外はすでに薄暗くなっていた。
公開ボタンの前で、何度も迷う。
誰にも読まれなければ、傷つかなくて済む。
でも、誰にも読まれないなら、私は何のために書くのだろう。
目を閉じて、クリックした。
数分後、作品ページを開く。
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「そうだよね」
私は小さく笑った。
「私の言葉なんて、そんなものだよね」
『君の言葉は、優しすぎて残らないんだよね』
彼の声が、また戻ってくる。ここでも、私の言葉は残らないのかもしれない。
それでも、不思議と、昨日の夜よりは少しだけ息がしやすかった。
灯台守を書いている間だけ、彼の言葉から離れられていた気がする。
成功したから救われるわけじゃない。書いたから、少しだけ救われる。
それだけのことだった。
◇
夕方、お湯を沸かしながら、続きを書こうと思った。
誰にも読まれていないのに、と自分でも笑ってしまう。
それでも、パソコンを開いて、灯台守の続きを書き進めた。
嵐の夜に灯りを守る場面。
誰も来ない夜に、それでも灯す理由を書く場面。
うまく書けたかどうかはわからないけれど、書いている間だけは、私は誰かのためではなく、自分のために言葉を選んでいた。
夜、布団に入る前に、もう一度だけ画面を開いた。
どうせ変わっていないだろうと思いながら。
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思考が、止まった。
「……え?」
たった三人。
たった一人。
それでも、確かに誰かが読んで、誰かがこの物語を、自分の場所に残しておこうとしてくれた。
昨夜の涙とは、違う涙だった。
何かが壊れて流れる涙ではなく、何かが小さく灯って、こぼれてくる涙。
私はスマホを胸に抱えて、声も出さずに泣いた。
その夜、私の言葉は、知らない誰かの本棚に初めて置かれた。
ください。
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