1話 才能がない婚約者
テーブルの上、婚約指輪が控えめに光っている。
左手の薬指にはめた指輪を見つめながら、私はスマホに保存した式場のパンフレットのことを思っていた。
今日は、結婚式の話をするのだと思っていた。
招待客のリストも、頭の中でなんとなく並べていた。
秋がいいか、春がいいか。
そんな、未来の輪郭をなぞるような話を、少しだけ楽しみにしていた。
落ち着いた雰囲気のカフェは、彼の好きな場所だった。
奥のソファ席は人目を気にせず座れる特等席で、今日の約束は十八時。
私は少し早く来て、その席を確保していた。
彼の好きな席を選ぶこと。
疲れている日には苦いものを頼んでおくこと。
仕事の愚痴を、最後まで聞く準備をしておくこと。
そんな小さな気遣いを、私はいつからか当たり前のように積み重ねてきた。
約束の時間から二十分が過ぎたころ、彼が息を切らして現れた。
「ごめん、会議が延びて」
謝罪というより、報告に近い声だった。
「お疲れさま」
私は笑って言う。彼はその言葉を、いつも通り当たり前のように受け取って、椅子に腰を下ろした。
すでに、彼のためのアイスコーヒーを頼んでおいた。
疲れている日の彼は、甘いものより苦いものを好む。
そんなことも、いつの間にか覚えていた。
彼はそれを当然のように受け取り、口をつけた。「ありがとう」の一言もないまま。
彼のネクタイが、少しだけ曲がっている。
いつもなら、笑って直すところだ。
けれど今日は、なぜか手が動かなかった。
彼が纏う空気が、いつもと違う気がしたから。
「結婚の話だけど」
彼がグラスをソーサーに置いて、まっすぐに私を見た。
心臓が、小さく嫌な音を立てる。
「白紙にしたいと思ってる」
店のBGMが、急に遠くへ遠ざかったような気がした。
「……え?」
声は、思ったより情けなく掠れた。
彼は、ため息ひとつつかずに続けた。
「君は優しい。本当にいい子だと思う。でも、それだけなんだ」
淡々とした声だった。怒っているわけでも、感情的になっているわけでもない。
ただ、決定事項を告げるような、冷静な響き。
「一緒にいて落ち着くけど、尊敬できない。俺はもっと、隣に立って刺激をくれる人と生きたいんだ。……ごめん、勝手なこと言ってるのはわかってる」
私は彼の顔を見た。
そこにあるのは怒りでも嫌悪でもなく、自分の決断に責任を持とうとする、まじめな顔だった。
「君の言葉は、優しすぎて残らないんだよね」
その一言が、いちばん深く刺さった。
大丈夫だよ。
頑張ったね。
また次があるよ。
彼の顔色を見て、そのたびに言葉を選んできた。
その全部が、「残らない」。
優しいことだけが、自分の取り柄だと思っていたのに。
泣き叫ぶことも、問い詰めることもできたはずだった。
けれど私はゆっくり息を吸って、顔を上げた。
「……わかりました」
自分の声が、驚くほどまっすぐ出た。
彼はわずかに肩の力を抜いた。
「君なら、そう言ってくれると思ってた」
その一言が、さらに深く刺さる。
最後まで、私の優しさを都合よく解釈している。
私は左手の薬指から、指輪をゆっくり外した。
金属が肌から離れる感覚が、妙に冷たい。
テーブルの上に、小さな音を立てて置く。
「今まで、ありがとうございました」
彼は一瞬、言葉を失ったように見えた。
怒られると思っていなかったからではない。
あまりにも綺麗に終わらせられて、居心地が悪くなったのだろう。
私はバッグを持って立ち上がり、彼が何か言う前に、出口へ歩き出した。
外に出ると、夜の街はいつも通りだった。
信号が青に変わる。
学生たちが笑いながら通り過ぎる。
コンビニの白い明かりが、変わらず交差点を照らしている。
自転車のチェーンが軋む音。
遠くのサイレン。
私の人生が一つ終わったみたいな日でも、世界はこんなに普通に明るい。
それがひどく滑稽で、私はただ、機械的に歩幅を刻んだ。
左手の薬指だけが、少しだけ軽くて、少しだけ寒かった。
◇
アパートの鍵を閉めた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
靴を脱ぐ前に、玄関のたたきに座り込む。
声は出なかった。
ただ、息がうまく吸えなくて、胸の奥がひゅう、と鳴った。
優しいだけ。
尊敬できない。
それだけ……残らない。
彼の言葉が、何度も頭の中で反響する。
これまで彼のために選んできた言葉の全部が、綺麗に洗い流されてしまったように感じた。
私の中身が、すうっと抜けていくようだった。
どれくらいそうしていただろう。
ようやく立ち上がって、部屋の片づけを始めた。
彼との予定を書き込んだ手帳を捨てようと、デスクの引き出しを開ける。
その奥に、見覚えのある古いノートがあった。
表紙の角が、少し曲がっている。
手に取ると、少し黄ばんだ紙の匂いがした。
学生のころ、誰に見せるわけでもなく書いていた物語の切れ端。
最初のページを開くと、少し幼い、昔の自分の字があった。
『いつか、誰かの心に残る物語を書きたい』
その一文を見た瞬間、胸の奥で、ずっと前に消えたはずの小さな火が、ちりっと音を立てた。
私はノートを閉じ、ノートパソコンを開いた。
以前から名前だけ知っていた小説投稿サイトを検索し、新規登録の画面を開く。
震える指で、メールアドレスとパスワードを入力した。
登録が完了する。
投稿ページを開いたけれど、タイトルも決まらないし、書きたいものの輪郭もまだ見えない。
それでも、点滅するカーソルに向かって、私はゆっくりとキーを叩いた。
『その日、私は誰かの光でいることをやめた。』
まだ、投稿ボタンは押さない。ただ、その一文だけが、画面の中に残っている。
誰の心にも、まだ届いていない。
けれどそれは、誰かのためではなく、今の私が初めて自分のために選んだ言葉だった。
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