第9話 いちばん好きな作家
彼の枕元には、いつしか『名もない灯台守』が置かれるようになっていた。
一度読んで本棚にしまうような本ではなかった。
眠る前に開き、気になった箇所だけを読み返す。
通勤鞄にも入れて、昼休みの残り十分で数ページだけ活字を追う。
表紙の角は少し丸みを帯び、ページのあちこちに細い付箋が増えていった。
以前の彼なら、本に線を引いたり付箋を貼ったりする人間を、少し大げさで感傷的すぎると笑っていたはずだ。
今は、自分がそうなっている。
スマホのメモ帳には、作品の中で立ち止まった一文を書き残すようになった。
『灯りが消えたのではない。照らす相手を、自分で選び直しただけだ』
『優しさは、差し出し続けなければ価値がないものではない』
『誰かに必要とされなくても、今日を生きていい』
仕事で息が詰まりそうになるたび、彼はトイレの個室や非常階段の踊り場で、そのメモを開いた。
この本はもう娯楽ではない。
自分という輪郭を保つための、小さな手すりのようなものになっていた。
その変化は、会社での振る舞いにも少しずつ表れ始めていた。
ある日の夕方、彼は異動を希望していた部下を会議室に呼び、改めて時間を取った。
「前は、話を聞かなかった。悪かった」
頭を下げる謝罪は、ひどくぎこちなかった。
部下もすぐには心を開かず、警戒するような目を向けていた。
それでも彼は、言い訳を挟まずにただ聞いた。
しばらくの沈黙のあと、部下がぽつりとこぼした。
「……何を言っても、結局は否定されると思っていました」
その一言が、その夜もずっと胸に残った。
彼女も、そうだったのではないか。
自分に何かを訴えることを、ずっと前に諦めていたのではないか。
これまで彼は、彼女を「優しいだけの人」だと思っていた。
自分の仕事の厳しさを理解できない、ただ微笑んでいるだけの人間だと。
だが作品を読み込むほどに、過去の記憶が少しずつ違う意味を持ち始めていた。
仕事の不満を彼が一息に吐き出した夜がある。
彼女はひとしきり聞いたあと、静かに尋ねた。
『今日は答えが欲しい? それとも、ただ聞いてほしい?』
当時の彼は「そんなこと、どちらでもいい」と苛立って返した。
今になって、その問いがどれほど相手の感情の逃げ場を考えた、深い気遣いだったかに気づく。
別の夜、彼が同僚の失敗を厳しく批判したとき、彼女は『その人にも事情があるかもしれないよ』と言った。
彼は「君は甘い」と切り捨てた。
今の彼には、その「甘さ」が、人の弱さを想像する力だったのだとわかり始めている。
彼女の言葉の多くを、当時は世間知らずの優しさだと決めつけていた。
だがそれは、彼女が人の痛みの形を、彼よりずっと細かく見えていたということだったのかもしれない。
彼は、自分を救ってくれた作者について知りたくなった。
出版社の公式紹介、投稿サイトの活動報告、書店員の推薦文、読者の感想。
ネット上のあらゆる情報を調べたが、灯野しずくという作家は私生活をほとんど明かしていなかった。
顔写真も、年齢も、本名もわからない。
ただ一つ、短いインタビュー記事の中に、彼の目を引く回答があった。
『――この作品を書いたきっかけは何ですか』
『誰かに価値を決められた夜、自分の言葉だけは捨てたくないと思ったことです』
彼はその文章を何度も読んだ。
なぜか、ひどく胸がざわついた。
――同じ頃、私はパソコンの白い画面を前に、深く息を吐いていた。
『名もない灯台守』は発売後すぐに話題になり、重版の話も、佐伯から受賞候補入りの知らせも届いていた。
読者からの感想は日々増え続けている。それでも私は、次回作の冒頭一行から、ずっと先へ進めなかった。
最初の作品は、自分の痛みをそのまま燃料にして、暗闇の中で手探りするように書けた。
だが二作目は違う。
読者の期待が見える。
編集部の期待が見える。
売上への不安もある。
次も、誰かを救えるものを書かなければ。
そう思うほど、嘘くさい言葉しか出てこなくなった。
数日後、打ち合わせの席で、佐伯に最初の原稿を見せた。
彼は静かに読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「文章は整っています。でも、どこか息をしていません」
「読者を救おうとしすぎています」
私は少し傷ついた。
「でも、私の本を待っている人がいます」
「先生は、読者の灯台にならなくていいんです」と佐伯は静かに続けた。
「物語まで、誰かのためだけに書かなくていい」
その言葉に、はっとした。
私は、気づかないうちに、第一作の灯台守と同じ場所に戻りかけていた。
誰かの期待に応え、自分を削って光を放とうとする、あの息苦しい場所へ。
――出版社から、灯野しずくの次回作が準備中であるという告知が出た。
彼は、発売日も決まっていないのに、毎日のように書店サイトを確認するようになった。
作者の活動報告に更新がないと、少し心配になる。
自分が、顔も知らない作家の新作を待つ人間になるとは、思ってもみなかった。
「その作家、そんなに好きなんですか?」
昼休みに本を開いていると、同僚から声をかけられた。
彼は少し考えてから答えた。
「好きというより……恩があるんだ」
その頃、彼と同じように『名もない灯台守』を読んでいた会社の後輩から、小さな書店で開かれる読書会に誘われた。
読書会など、自分の柄ではないと最初は断ろうとした。
だが「あの本に救われた人、けっこう多いみたいですよ」という一言に押され、彼は参加を決めた。
休日の午後、書店の一角には、さまざまな人が集まっていた。
家族の介護に疲れていた人。仕事で自信を失った人。
恋人に尽くしすぎて別れた人。長く誰かを支えてきた人。
それぞれが、作品のどこに救われたかを静かに語り合った。
彼は初めて、自分とはまったく違う痛みを抱えた人たちが、同じ本を読んでいたことを知った。
その中で、ある女性がぽつりと言った。
「私は、灯台守を捨てていった船のほうが怖かったです。自分が誰かの灯りに甘えていないか、当たり前だと思っていないか、考えてしまって……」
彼の表情が、凍りついた。
帰り道、彼は一人で歩いた。
夕暮れの街が、いつもより静かに見えた。
自分は灯台守だと思って読んでいた。
仕事で責任を負い、誰にも理解されずに頑張っている自分。
それが灯台守だと思っていた。
だが、もしかすると自分は、船だったのではないか。
誰かに照らされながら、その灯りがあることを当然だと思い、感謝すら忘れていた側。
彼女の静かな表情が、また浮かぶ。
婚約破棄のあの夜、彼女は「あなたは一人で何でもできるから、私はいなくても大丈夫だよね」などとは言わなかった。
ただ「今までありがとうございました」と言っただけだ。
それなのに、今思えば、あの静かな受け入れ方は、同じ意味を持っていたのかもしれない。
彼は立ち止まり、スマホを取り出した。
彼女の連絡先を開き、久しぶりにメッセージを打ち始める。
『元気にしているか。最近、少し考えることがあって……』
そこまで書いて、指を止めた。
謝るには、まだ自分が彼女から何を奪ったのか、理解しきれていない。
寂しいから連絡するのは違う。
作品に動かされた勢いで、彼女に都合よく救いを求めるのも違う。
彼はすべて消去し、スマホをポケットにしまった。
彼女には連絡できない。
代わりに、彼は灯野しずく宛てのファンレターを書くことにした。
最初は短く済ませるつもりだった。
しかし便箋を前にすると、誰にも言えなかった言葉があふれ出した。
『あなたの本を読んで、自分は灯台守だと思っていました。
でも、何度も読むうちに、私は灯りを当然だと思っていた船だったのかもしれないと気づきました。
失ってからでは遅いものがあることも、今になってわかります。
それでも、気づいたあとに生き方を変えることはできるでしょうか』
最後に、一行だけ書き添える。
『あなたは、私のいちばん好きな作家です』
差出人はイニシャルだけにした。本名は書かなかった。
――数日後、打ち合わせの終わりに、佐伯から読者の手紙がまとめて渡された。
私は帰りの電車の中で、一通ずつ丁寧に開いていく。
その中に、イニシャルだけが記された見知らぬ手紙があった。
筆跡や文章の癖だけで、それが誰なのか気づくはずもない。
ただ、その内容に心が止まった。
『私は、灯りを当然だと思っていた船だったのかもしれません』
自分の物語を読んで、ここまで深く自分と向き合い、変わろうとしている人がいる。
私は手紙に返事を書くことはできない。
それでも、心の中で静かに答えた。
気づいたあとからでも、人は変われると思います。
その週、佐伯から連絡が届いた。
『名もない灯台守』の重版と、文学賞候補入りを記念して、出版社主催の小さなパーティーが開かれるという。
「無理に顔を出す必要はありません。ただ、あなたの本を支えてくれた書店員や関係者に、直接会える機会です」
これまでは顔を出さず、ペンネームの陰に隠れてきた。
それでも、自分の言葉が誰かに届いている実感を得た今、逃げてばかりはいられない気がした。
私は迷った末に、出席を決めた。
――同じ頃、彼の手元にも一通の招待状が届いていた。
読書会を主催した書店がパーティーに招待されており、そこで熱心に発言していた彼にも、同行の声がかかったのだ。
招待状には、こう書かれていた。
『灯野しずく先生ご本人も出席予定』
彼は何度も、その一文を読み返した。
自分を救ってくれた作家に会える。
感謝を直接伝えられる。
彼は迷わず、参加を決めた。
パーティーの当日。
私は鏡の前に立ち、服装を確認していた。
華美ではない、静かな色のワンピース。
以前は、彼の隣に立つために、彼が好む服を選んでいた。
今は、自分の名前で人前に立つための服を選んでいる。
一方、彼は自室で、何度も読んで角が丸くなった『名もない灯台守』を鞄に入れていた。
サインをもらうため。
そして、心からの感謝を伝えるために。
彼が会いたいと願った作家と、もう二度と会えないと思っていた女性は、同じ名前のない扉の向こうにいた。
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