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「君の言葉は、優しすぎて残らない」と婚約破棄された私が、覆面作家として書いた小説に、元婚約者が救われていました  作者: そらのことのは


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11/12

第11話 照らすのをやめた日

 出版社のパーティーから、数日が過ぎた。


 私は普段通り仕事へ行き、利用者さんの家を回り、笑顔で挨拶をし、帰宅してから机に向かう。

 生活そのものは、何も変わっていないように見える。

 ただ一つだけ、確かに違うことがあった。


 彼を思い出す時間が、少しずつ減っていた。

 婚約破棄の直後は、目を覚ますたびに彼の言葉が真っ先に鳴った。

 優しいだけ。

 尊敬できない。

 それだけ。

 今は、仕事帰りの夕空を見上げて、次の作品の一文を考えている。

 彼の声よりも先に、灯台守の一節や、読者からもらった言葉が浮かぶようになっていた。


 ある日の打ち合わせの帰り、佐伯から一通の封筒を差し出された。

「読者からの手紙に混ざっていたのですが、差出人の名前を見て、念のため確認しようと思いまして。渡しても大丈夫ですか?」


 封筒の裏には、彼のごつごつとした字で、本名が書かれていた。

 灯野しずくではなく、私自身の名前を、彼はきちんと覚えていた。

 私は少しだけ考え、小さく頷いて受け取った。


 帰りの電車の中で、封を切る。数枚の便箋が入っていた。


 彼は、初めて言い訳をしていなかった。


『婚約破棄の日のこと。君を優しいだけと言ったこと。尊敬できないと言ったこと。

 俺は、君をまったく見ようとしていなかった。君の優しさを当たり前だと思い、支えてもらっていたことにも気づかず、君の言葉を何の重みもないものだと決めつけていた。

 灯野しずくという名前を知って、初めて気づいた。君がどれだけ多くの人を救える人だったか。俺自身も、その一人になった。

 ごめんなさい』


 それだけだった。

 やり直したいという言葉は、どこにもなかった。

 謝罪は、許してもらうためではなく、自分の責任を認めるために書かれたものだと、文面全体から伝わってきた。


 私は最後まで読み、便箋を静かに封筒へ戻した。

 泣かなかった。

 怒りも湧かなかった。

 ただ、胸の奥でずっと固く結ばれていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。


「返事を書きますか?」

 翌日、佐伯が聞いた。

 私は少し笑って答えた。

「会って話そうと思います」


 待ち合わせに指定したのは、婚約破棄を告げられたあのレストランではなかった。

 付き合い始めた頃、コンビニで買ったホットコーヒーを分け合いながら座った、小さな公園のベンチだった。


 夕方、着くと彼はすでに来ていた。

 私を見ると、弾かれたように立ち上がる。


 私が近づくと、彼は深く頭を下げた。

 長い沈黙が落ちる。

 公園の木々が、夕風に揺れる音だけが二人の間にあった。


「本当に、ごめん」


 顔を上げた彼の声は、思ったよりも落ち着いていた。

「君を見ていなかった。君の優しさを当たり前だと思っていた。支えてもらっていたことにも気づかず、君の言葉を否定した。なのに、その言葉に、自分が救われた。本当に最低だった」


 私は一度も口を挟まなかった。

 彼がどこまで自分の責任を見つめられるか、最後まで聞き届けたかった。


 言葉が途切れたところで、私は静かに話し始めた。

「あの日、私が一番苦しかったのは、あなたに否定されたことより、自分まで自分を否定したことだったの」

 少し間を置いてから続ける。

「あなたの言葉を信じて、私は何も持っていない人間なんだと、本当に思ってしまった」


 彼は唇を強く結び、涙をこらえているようだった。


「でもね」

 私は少しだけ笑った。

「あなたがいなかったら、私は小説を書かなかった。灯野しずくにも出会えなかった。だから、全部を後悔しているわけじゃないの」


 彼は驚いたように私を見た。


「あなたを恨んでいた時期も、ちゃんとあった。でも、灯台守を書いているうちに、少しずつ終わっていった。だから、もう大丈夫」


 その言葉を聞いた瞬間、彼の目から涙がこぼれた。

 仕事で失敗したときも、婚約を解消したときも泣かなかった彼が、私の前で、声も上げずに泣いていた。

 私はそれを見ても、慰めようとは思わなかった。

 彼が泣くことは、彼自身のことだ。

 もう私が受け止める必要はない。


「もし、今からでも……」

 彼は迷いながら言いかけ、そこで止まった。

 最後までは、言えなかった。


 私は優しく、けれどはっきりと止めた。

「ごめんなさい」


「私、もうあなたを照らす人じゃないの」


 夕日が、私たちの足元に長い影を落としていた。

「でも、あなたが自分の灯りを見つけられることは、心から願ってる」


 彼は涙を拭い、財布から一枚の古い写真を取り出した。

 付き合い始めたばかりの頃、二人で笑っている写真だった。

「これ、処分してもいいかな」

 私は少し笑って答えた。

「あなたに任せる」


 彼はその場では捨てなかった。

 財布の奥にそっと戻すその手つきは、未練からではなく、自分の過ちの証として、過去を過去のまま受け止めるためのように見えた。


「君の本、次も読む」

 私は少し照れて笑った。

「一人の読者として、お願いします」


 私たちは、恋人ではなくなった。

 作者と読者という、新しい、そして少し遠い関係になった。


「じゃあ、これで」

 私は背を向け、歩き出した。彼は追いかけてこなかった。

 呼び止める声もしなかった。

 私も、振り返らなかった。


 公園を出ると、夕暮れの街がいつも通りに広がっていた。

 信号が変わる。

 自転車が通り過ぎる。

 コンビニの明かりがついている。


 第1話の夜と、同じ景色だった。

 あの夜も、私の人生が終わったような日に、世界はこんなに普通に明るかった。

 でも今夜は違う。

 世界が普通に動いていることが、残酷ではなく、ただ当たり前のことに思えた。


 あの日、私は照らすのをやめた。

 あの頃は、それが終わりだと思っていた。


 でも違った。

 照らすのをやめたから、私は初めて、自分の灯りを見ることができた。


 もう私は、誰かの光ではない。

 私は、私の人生を照らして歩いていく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

もしよろしければ、評価やブックマーク、星を頂けると、執筆の励みになります。

よろしくお願いいたします。

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