第11話 照らすのをやめた日
出版社のパーティーから、数日が過ぎた。
私は普段通り仕事へ行き、利用者さんの家を回り、笑顔で挨拶をし、帰宅してから机に向かう。
生活そのものは、何も変わっていないように見える。
ただ一つだけ、確かに違うことがあった。
彼を思い出す時間が、少しずつ減っていた。
婚約破棄の直後は、目を覚ますたびに彼の言葉が真っ先に鳴った。
優しいだけ。
尊敬できない。
それだけ。
今は、仕事帰りの夕空を見上げて、次の作品の一文を考えている。
彼の声よりも先に、灯台守の一節や、読者からもらった言葉が浮かぶようになっていた。
ある日の打ち合わせの帰り、佐伯から一通の封筒を差し出された。
「読者からの手紙に混ざっていたのですが、差出人の名前を見て、念のため確認しようと思いまして。渡しても大丈夫ですか?」
封筒の裏には、彼のごつごつとした字で、本名が書かれていた。
灯野しずくではなく、私自身の名前を、彼はきちんと覚えていた。
私は少しだけ考え、小さく頷いて受け取った。
帰りの電車の中で、封を切る。数枚の便箋が入っていた。
彼は、初めて言い訳をしていなかった。
『婚約破棄の日のこと。君を優しいだけと言ったこと。尊敬できないと言ったこと。
俺は、君をまったく見ようとしていなかった。君の優しさを当たり前だと思い、支えてもらっていたことにも気づかず、君の言葉を何の重みもないものだと決めつけていた。
灯野しずくという名前を知って、初めて気づいた。君がどれだけ多くの人を救える人だったか。俺自身も、その一人になった。
ごめんなさい』
それだけだった。
やり直したいという言葉は、どこにもなかった。
謝罪は、許してもらうためではなく、自分の責任を認めるために書かれたものだと、文面全体から伝わってきた。
私は最後まで読み、便箋を静かに封筒へ戻した。
泣かなかった。
怒りも湧かなかった。
ただ、胸の奥でずっと固く結ばれていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。
「返事を書きますか?」
翌日、佐伯が聞いた。
私は少し笑って答えた。
「会って話そうと思います」
待ち合わせに指定したのは、婚約破棄を告げられたあのレストランではなかった。
付き合い始めた頃、コンビニで買ったホットコーヒーを分け合いながら座った、小さな公園のベンチだった。
夕方、着くと彼はすでに来ていた。
私を見ると、弾かれたように立ち上がる。
私が近づくと、彼は深く頭を下げた。
長い沈黙が落ちる。
公園の木々が、夕風に揺れる音だけが二人の間にあった。
「本当に、ごめん」
顔を上げた彼の声は、思ったよりも落ち着いていた。
「君を見ていなかった。君の優しさを当たり前だと思っていた。支えてもらっていたことにも気づかず、君の言葉を否定した。なのに、その言葉に、自分が救われた。本当に最低だった」
私は一度も口を挟まなかった。
彼がどこまで自分の責任を見つめられるか、最後まで聞き届けたかった。
言葉が途切れたところで、私は静かに話し始めた。
「あの日、私が一番苦しかったのは、あなたに否定されたことより、自分まで自分を否定したことだったの」
少し間を置いてから続ける。
「あなたの言葉を信じて、私は何も持っていない人間なんだと、本当に思ってしまった」
彼は唇を強く結び、涙をこらえているようだった。
「でもね」
私は少しだけ笑った。
「あなたがいなかったら、私は小説を書かなかった。灯野しずくにも出会えなかった。だから、全部を後悔しているわけじゃないの」
彼は驚いたように私を見た。
「あなたを恨んでいた時期も、ちゃんとあった。でも、灯台守を書いているうちに、少しずつ終わっていった。だから、もう大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、彼の目から涙がこぼれた。
仕事で失敗したときも、婚約を解消したときも泣かなかった彼が、私の前で、声も上げずに泣いていた。
私はそれを見ても、慰めようとは思わなかった。
彼が泣くことは、彼自身のことだ。
もう私が受け止める必要はない。
「もし、今からでも……」
彼は迷いながら言いかけ、そこで止まった。
最後までは、言えなかった。
私は優しく、けれどはっきりと止めた。
「ごめんなさい」
「私、もうあなたを照らす人じゃないの」
夕日が、私たちの足元に長い影を落としていた。
「でも、あなたが自分の灯りを見つけられることは、心から願ってる」
彼は涙を拭い、財布から一枚の古い写真を取り出した。
付き合い始めたばかりの頃、二人で笑っている写真だった。
「これ、処分してもいいかな」
私は少し笑って答えた。
「あなたに任せる」
彼はその場では捨てなかった。
財布の奥にそっと戻すその手つきは、未練からではなく、自分の過ちの証として、過去を過去のまま受け止めるためのように見えた。
「君の本、次も読む」
私は少し照れて笑った。
「一人の読者として、お願いします」
私たちは、恋人ではなくなった。
作者と読者という、新しい、そして少し遠い関係になった。
「じゃあ、これで」
私は背を向け、歩き出した。彼は追いかけてこなかった。
呼び止める声もしなかった。
私も、振り返らなかった。
公園を出ると、夕暮れの街がいつも通りに広がっていた。
信号が変わる。
自転車が通り過ぎる。
コンビニの明かりがついている。
第1話の夜と、同じ景色だった。
あの夜も、私の人生が終わったような日に、世界はこんなに普通に明るかった。
でも今夜は違う。
世界が普通に動いていることが、残酷ではなく、ただ当たり前のことに思えた。
あの日、私は照らすのをやめた。
あの頃は、それが終わりだと思っていた。
でも違った。
照らすのをやめたから、私は初めて、自分の灯りを見ることができた。
もう私は、誰かの光ではない。
私は、私の人生を照らして歩いていく。
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