第12話 私のための灯り
あの日から、一年が過ぎていた。
季節は、婚約を破棄されたあの頃とちょうど同じ、少し肌寒い風が吹く時期に巡ってきていた。
それでも、私の生活は一年前とはまるで違う。
『名もない灯台守』は重版を重ね、いくつかの文学賞にもノミネートされた。
書店では今も平積みにされ、電子版も読まれ続けている。
私は仕事を辞めなかった。
相変わらず同じ会社に通い、利用者さんの家を回り、帰宅してから執筆を続けている。
ただ、以前のように頼まれごとをすべて無理して引き受けることはなくなった。
「ごめん、これ今日中にお願いできる?」と先輩に聞かれれば、
「すみません、今日は難しいです。明日ならできますが」
と、自分の都合もはっきり伝えられるようになった。
人生のすべてが小説一色になったわけではない。
仕事も、執筆も、休む時間も、私は自分で選び直せるようになっていた。
今書いている二作目は、『名もない灯台守』とはまったく違う物語だった。
灯台も、海も、婚約破棄も出てこない。
雨の降らない町で、黙々と傘を作り続ける職人の物語。
誰にも必要とされないものを作っていると思い込んでいた職人が、まだ見ぬ雨の日のためではなく、傘を作ることそれ自体が好きだったのだと、少しずつ気づいていく話だ。
前作のような、身を削るほどの激しい痛みはない。
それでも、今の私だから書ける、静かで少し温かな物語になっていた。
週末、出版社の会議室でその原稿を佐伯に読んでもらった。
以前の私なら、彼が読み終わるまで表情をずっとうかがっていただろう。
今日は、紅茶をゆっくり口にしながら、窓の外の景色を眺めて待つことができた。
やがて佐伯は原稿をテーブルに置いた。
「前作とは、ずいぶん違いますね」
少しだけ緊張する。
「やっぱり、読者が求めているものとは違いますか?」
佐伯は静かに首を振った。
「違います。でも、それでいいと思います」
そして、まっすぐに尋ねてきた。
「先生は、この物語を書きたいですか?」
「はい。書きたいです」
迷いはなかった。佐伯は小さくうなずいた。
「それなら、続きを読ませてください」
売れるかどうか、誰かを救えるかどうかではない。
自分が書きたいかどうか。
その一点で物語を選べるようになった自分に、私は静かな驚きを覚えていた。
帰宅後、引き出しの奥から古いノートを取り出す。
第1話の夜、絶望の中で見つけたあのノートだ。
最初のページには、昔の幼い字で「いつか本を出したい」と書かれ、その下には書き足した「今日、少しだけ近づいた」という一文がある。
私はペンを取り、さらにその下に書き加えた。
『一冊出しても、夢は終わらなかった』
夢は、達成した瞬間に完結するものではない。
次の物語へ形を変えて、続いていく。
投稿サイトを開くと、最初の感想をくれた「通りすがりの読者」からメッセージが届いていた。
『あの物語を読んだあと、ずっと怖くて先延ばしにしていたことを始めました。うまくいくかはわかりません。でも、今は自分で選んだ道を歩いています』
私は気づく。
物語が、その人の人生を代わりに救ったのではない。
物語は扉の場所を示しただけだ。
開けて歩いたのは、その人自身だった。
『教えてくださって、ありがとうございます。あなたが選んだ道に、優しい灯りがありますように』
と返信を送った。
――同じ頃、彼は以前と同じ会社で働き続けていた。
失った信頼がすべて戻ったわけではない。
異動を希望していた部下は、結局別の部署へ移っていった。
それでも彼は、結果だけを急がず、一つずつ関係を立て直していた。
会議では以前より先に相手の話を聞く。
体調が悪い日は無理をしない。
部下の意見に反対するときも、まず理由を尋ねる。
劇的に別人になったわけではない。
失敗する日も、苛立つ日もある。
ただ、自分の間違いを誰かのせいにせず、立ち止まれるようになっていた。
昼休み、彼は書店サイトで、灯野しずくの新刊予告を見つけた。
仮題は『雨の降らない町の傘職人』。
紹介文を読み、小さく笑う。
前作とはずいぶん違う。
それでも迷わず、予約ボタンを押した。
彼女に連絡はしない。
個人的な近況を知ろうともしない。
あの日、彼女が過去を許してくれたことを、再び近づいてよい許可だとは考えなかった。
彼は一人の読者として、ただ発売を待つ。
彼の本棚には、今も『名もない灯台守』が置かれている。
見返しには「あなた自身の灯りを、大切にしてください」という一文。
今も大切な一冊だが、以前のように毎晩すがるようには読まない。
本はもう杖ではなく、進む方向を思い出すための、静かな目印になっていた。
◇
ある日の仕事帰り、私は一人でレストランに入った。
そこは、一年前、彼に婚約破棄を告げられたあの店だった。
特別な感傷のためではない。
近くで用事があり、夕食を取る場所として自然に選んだだけだった。
案内される途中、以前座っていた席が視界の端に入る。
一瞬だけ目を向ける。
胸は痛まなかった。
何も感じないわけではない。
それは、古い傷跡を指先でなぞったときに覚える、鈍い違和感のようなものだった。
もう血は出ない。
ただ、「あの頃、確かにここで泣いたな」と、遠くから眺めることができる程度には、時間が経っていた。
「お一人ですか?」
「はい、一人です」
その言葉に、寂しさはなかった。
食事をしていると、隣の席に若い女性が座り、本を開いた。
表紙は『名もない灯台守』。
女性はときどきページを止め、目元を押さえている。
私は声をかけなかった。
作者だとも名乗らなかった。
ただ、静かにその姿を見ていた。
かつて閲覧数がゼロだった物語が、今は知らない誰かの手の中にある。
それだけで、十分だと思えた。
やがて女性のスマホが震える。
彼女は電話には出ず、短いメッセージを打ってから本を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、誰かに電話をかけた。
「もしもし。少し話したいことがあるの」
恋愛かもしれない。
家族かもしれない。
仕事かもしれない。
事情はわからない。
ただ、『名もない灯台守』が、また一人の読者に小さな行動を起こさせたことだけが、静かに伝わってきた。
会計を済ませ、席を立つ。
女性の前を通り過ぎるとき、本の帯が目に入った。
『誰かのために灯り続けたあなたへ』
私は少しだけ微笑んだ。
作者だと名乗り、感謝される必要はない。
誰かの人生を変えたと確かめる必要もない。
物語は、作者の手を離れたあと、読者のものになる。
外はすっかり暗くなっていた。
街灯が道を静かに照らしている。
一年前の私なら、帰宅後の静かな部屋を怖いと感じていただろう。
今は違う。
帰れば、書きかけの原稿がある。
お気に入りの飲み物がある。
読みたい本もある。
誰かに待たれているから帰るのではない。
私自身の暮らしが待っているから、帰るのだ。
部屋に戻り、パソコンを開く。
二作目の原稿には、傘職人が初めて自分のために一本の傘を作る場面が表示されている。
しばらく考え、新しい文章を打ち込んだ。
『雨が降るから傘を作るのではない。私は、この手で空をひらくことが好きだった』
読み返す。誰かを救えるかはわからない。
売れるかどうかもわからない。
けれど、私はこの続きを書きたい。
その気持ちだけで、次の一文を打つ。
机の上には、本名でサインした契約書、古いノート、読者から届いた手紙が並んでいる。
以前の私は、灯野しずくを本当の自分とは別の存在だと思っていた。
灯野しずくなら書ける。
灯野しずくなら認めてもらえる。
本当の自分には何もない、と。
今はわかっている。
傷ついた自分も、働く自分も、迷う自分も、書く自分も、すべて同じ一人の人間だ。
原稿の著者欄に記された「灯野しずく」の文字を見ても、もう自分から離れているとは感じない。
投稿サイトから、新しい通知が届く。
『名もない灯台守』に、新しい感想が投稿されていた。
『今日、この物語を見つけました。今の私に必要な言葉だった気がします。もう少しだけ、自分のために生きてみます』
第3話の夜、最初の感想をもらったとき、私はスマホを胸に抱えて声も出さずに泣いた。
あの一通だけが、私を次の朝へ連れていってくれた。
今夜は、その言葉を静かに受け取り、通知を閉じる。
感想が届いたことはうれしい。
でも、その言葉がなければ書けないわけではない。
私は自分の意思で、二作目の原稿へ戻る。
窓の外には、遠くの街の灯りが点々と瞬いている。
以前の私は、誰かを照らしていなければ、自分には価値がないと思っていた。
けれど今は違う。
光は、誰かに見つけてもらうためだけに灯るものではない。
自分がここにいると、自分自身に知らせるためにも灯る。
私は新しいページに、また一つ言葉を重ねていく。
物語はまだ途中。人生も、まだ途中。
私はもう、誰かに見つけてもらうためではなく、私が私を見失わないために、灯りをつける。
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。
実は書いていて、灯野しずく先生の『名もない灯台守』、読んでみたくなりました。誰にも気づかれないまま灯りをともし続けた人が、ある夜、自分のための灯りをつける。その場面を書きながら、何度も手が止まりました。
元婚約者もただの悪役として終わらせず、不器用ながら自分の過ちに向き合い、別の道を歩き始める姿を描きました。二人の道はもう交わりませんが、それぞれが自分の足で歩いていく結末に、少しでも温かい余韻を感じていただけたら、これ以上の喜びはありません。
灯野しずくは、この物語のあとも、雨の降らない町で傘を作り続ける職人の話を書き始めています。誰かのためではなく、自分が書きたいから書く。その先の物語も、これからもどうぞ見守っていただけたら嬉しいです。
もし少しでも心に残る場面がありましたら、感想やブックマーク、評価で教えていただけると、次の物語を書いていくための、小さな灯りになります。
ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。あなたのこれからの道にも、あたたかな灯りがありますように。




