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「君の言葉は、優しすぎて残らない」と婚約破棄された私が、覆面作家として書いた小説に、元婚約者が救われていました  作者: そらのことのは


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10/12

第10話 あなたが、灯野しずくだった

 ホテルの宴会場へ向かうエレベーターの中で、私はガラスに映る自分の姿を、もう一度だけ確認した。


 着ているのは、派手ではない深い紺色のワンピースだった。

 以前の私なら、彼の隣に立って恥ずかしくないように、彼の好みに合わせた色や丈を選んでいた。

 今日は、自分の言葉を支えてくれた人たちに会うために、自分のために選んだ服だった。


 バッグの中には、佐伯から渡された当日の進行表が入っている。


『灯野しずく先生 ご挨拶』

『書店関係者との交流』

『記念撮影』


「先生」という文字には、何度見てもまだ慣れない。


 エレベーターの扉が開くと、壁には『名もない灯台守』の表紙が大きく掲示されていた。

 編集者、書店員、出版社の担当者、読者代表たちが、思い思いに談笑している。

 自分の内側にだけあったはずの痛みの形が、こうして他人の前に飾られていることに、不思議な感覚を覚える。


「緊張していますか?」

 佐伯が隣に立って尋ねた。

「少しだけ、逃げたいです」

 佐伯は笑わずに答えた。

「逃げても構いません。ただ、先生に会いたい人が、今日は何人も来ています」

 私は深く息を吸って、会場を見渡した。


 ――同じ頃、彼は受付でネームプレートを受け取っていた。


 鞄の中には、『名もない灯台守』が入っている。

 何度も読み返したせいで表紙の角は丸くなり、ページのあちこちに付箋が貼られている。

 一か所だけ、紙がうっすらと波打っている場所がある。

 あの夜、思わず落ちた涙の跡だった。


 彼は周囲を見回しながら、灯野しずくがどんな人物なのかを想像していた。

 年上かもしれない。

 物静かな雰囲気の人かもしれない。

 あれだけの物語を書くのだから、深い痛みを知っている人のはずだ。

 まさか、自分がかつて「優しいだけで、残らない」と切り捨てた女性がその作者だとは、考えもしなかった。


 会場の端へ視線を移したとき、彼の足が止まった。

 壁際に立つ、見覚えのある横顔。


 一瞬、見間違いだと思った。

 こんな場所にいるはずがない。


 彼女もふとこちらを向く。

 視線がぶつかり、周囲の音が遠くなった。


 彼は戸惑いを隠せないまま、歩み寄った。

「どうして、ここに……?」

 彼女はすぐには答えなかった。

 彼は、彼女が出版社の関係者か、誰かの付き添いで来たのだと解釈した。


「久しぶりだな」

「そうですね」


 短い言葉のあと、彼は彼女の雰囲気が以前と違うことに気づいた。

 華やかになったわけではない。

 ただ、誰かの顔色をうかがう癖が、すっかり消えている。


「仕事は、変わらないのか?」

「続けています。ほかにも、少し」

 その「少し」を、彼は深く聞かなかった。


 会話が途切れたとき、彼女の視線が彼の手元に落ちた。

『名もない灯台守』。

 擦れた角、付箋の数々。

 一度読んで棚に戻した本の状態ではない。


「その本、好きなんですか?」

 彼は少し驚いたように本を見下ろし、素直に頷いた。

「ああ。たぶん、今まで読んだ本の中で一番好きだ」


「仕事がうまくいかなくなった時に、雨宿りで入った本屋で偶然買った」

 彼は本の表紙を指でなぞりながら続ける。

「最初は、自分が灯台守だと思って読んでいた。誰にも理解されずに、責任だけを負っている自分と重ねて」

 彼女は黙って聞いていた。

「でも、違った」と彼は言う。

「何度も読むうちに気づいたんだ。俺は、灯台守じゃない。灯りがあることを当然だと思っていた、船だったのかもしれない」


 その言葉が、彼女の中で一つの記憶と重なった。


『私は、灯りを当然だと思っていた船だったのかもしれません』


 あの、イニシャルだけのファンレター。

 書いたのは、やはり彼だったのだ。


「灯野しずく先生は、俺のいちばん好きな作家だ」

 彼はグラスを持つ手に、少し力を込めた。

「この本に救われた。今日は、それを直接伝えたくて来た」


 彼女の胸に、複数の感情が同時に押し寄せた。

 うれしい。

 苦しい。

 どこか皮肉でもある。

 婚約を破棄したあの夜、彼は言った。

『君には、尊敬できるものがない』と。

 今、その彼が、彼女を知らないまま、彼女の言葉に救われ、その作者を「いちばん好き」と呼んでいる。


 それでも彼女は、すぐに名乗らなかった。


「そこまで、その本が大切なんですね」

「大切というより、恩がある」と彼は視線を落とす。

「あの作家の言葉で、自分が間違っていたことに気づいた」

「何を、間違えていたんですか?」


 彼は、彼女に直接謝罪するつもりでここへ来たわけではなかった。

 だが、目の前に彼女がいることで、言葉が自然にこぼれた。

「人の優しさを、価値のないものだと思っていた。支えてもらっていることにも気づかずに、一人で何でもできると思い込んでいた」

 彼女は静かに聞いていた。

「別れてから、君のことも、考えた」


 彼女の表情が、わずかに硬くなる。


 そのとき、背後から声がかかった。

「灯野先生、そろそろご挨拶の時間です」


 佐伯だった。


 彼はその呼び方の意味が、すぐには結びつかなかった。

 彼女を見る。

 佐伯を見る。

 会場の壁に大きく掲示された著者名を見る。


 灯野しずく。


 もう一度、彼女を見た。


 佐伯が、自然な調子で紹介する。

「こちらが、『名もない灯台守』の著者、灯野しずく先生です」


 時間が、止まった。


 冗談だと思いたかった。

 しかし彼女は否定しない。

 静かな表情のまま、そこに立っている。


「君が……書いたのか?」

 かすれた声だった。

「はい」


 彼は手の中の本を見た。

 付箋。

 擦れた角。

 涙の跡。

 自分を救った言葉、暗闇の中で何度も読み返した文章。

 それらすべてが、自分が「空っぽだ」と切り捨てた女性から生まれていた。


 婚約破棄の日の言葉が、鮮明に蘇る。


 君は優しいだけだ。

 尊敬できない。

 君の言葉は、誰の心にも残らない。


 その言葉と、目の前の現実が、音を立ててぶつかった。


 佐伯に促され、彼女は壇上へ向かう。

 彼はその場から動けなかった。


 マイクの前に立った彼女は、最初は少し緊張していた。

 だが会場を見渡すと、ゆっくりと口を開いた。


「この物語を書き始めた頃、私は自分の言葉には価値がないと思っていました」

 彼の胸が、きゅっと締めつけられる。

「でも、たった一人の読者が、続きを待っていると言ってくれました。その言葉が、私をここまで連れてきてくれました」


 彼は、自分ではない誰かが彼女を支えたことを知った。

 彼が彼女を手放した後、彼女は一人で立ち上がったのではない。

 知らない読者や、佐伯とのつながりの中で、自分の人生を築き直していた。


「灯台守は、誰かを照らすことをやめたわけではありません」と彼女は続けた。

「ただ、自分を消してまで照らす必要はないと気づいただけです」


 彼は、完全に理解した。

『名もない灯台守』は、彼女の物語だった。

 そして自分は、その灯りを当然だと思い込み、海図の力だけで進んでいると錯覚していた、愚かな船だった。


 拍手が会場に広がる。

 パーティーが進むうちに、彼女の周りには次々と人が集まった。

 書店員、編集者、読者代表。彼女は笑いながら言葉を交わしている。


 彼はすぐには近づかなかった。

 以前の彼なら、自分を優先するよう求めていたかもしれない。

 だが今は、待てた。

 彼女には、彼女の時間がある。


 人の波が少し引いたころ、彼はゆっくりと歩み寄った。

「少しだけ、話せるか」


 彼女は静かに頷いた。


 彼は、両手で本を差し出した。

「サインを、もらってもいいか」


 彼女は本を受け取る。

 ページを開くと、紙が薄く波打っている場所がある。

 涙の染みだ。

 この本が、本当に彼を救ったのだと、その跡が物語っていた。

 茶化すことも、責めることもできなかった。


 彼女はペンを取り、見返しに文字を書く。


 灯野しずく


 何かをつけ加えるべきか、彼女は少し迷った。

 過去について書くことも、慰めの言葉をかけることもできた。

 けれど、彼女が選んだのは、そのどちらでもなかった。


『あなた自身の灯りを、大切にしてください』


 それは、彼との関係をやり直すための言葉ではない。

 彼女が彼を照らすことは、もうない。

 けれど、彼が自分の力で立ち直ることまでは、否定しない。

 そういう、一人の人間から一人の人間への、静かな祈りだった。


 彼はその言葉を読み、深く頭を下げた。

「ありがとう」

「読んでくれて、ありがとうございました」


 二人は今、かつての婚約者としてではなく、作者と読者として言葉を交わしていた。


 彼は本を閉じ、顔を上げる。

「君に、謝らなければいけない」


 彼女はすぐには拒まなかった。

 ただ、静かに言う。

「今日は、私の本の、お祝いの席です」

「話すなら、別の日にしてください」


 それは逃げではなかった。

 彼女が、自分の時間と場所を、自分の意志で選んだ瞬間だった。

 婚約破棄の夜、カフェで「わかりました」とだけ答えて指輪を外した自分と、今の自分は、同じ言葉を使っていない。

 けれど、静かであることの意味は、あの夜とはまるで違っていた。

 あの夜の静けさは、諦めだった。

 今日の静けさは、選択だった。


 彼は頷いた。

「わかった」


 遠くから、佐伯が彼女を呼ぶ声がした。

 彼女は彼に一礼し、会場の中心へ戻っていく。

 振り返ることはなかった。


 彼は、人々に囲まれる彼女の背中を見つめていた。

 昔の彼女は、自分の隣で小さくなっていた。

 今は、自分の名前で、そこに立っている。

 彼は初めて、彼女という人間を正しく見た気がした。


 その夜、帰宅した彼は、静かな部屋でサインのページを開いた。


『あなた自身の灯りを、大切にしてください』

 灯野しずく


 ページをめくり、物語の最初の一文に目を落とす。


『灯りをつけるたび、私は少しずつ、誰のものでもなくなっていった』


 初めて読んだときとは、意味がまるで違って胸に響いた。

 今ならわかる。

 彼女は、自分のものではなかった。

 最初から、自分の足で立つ、一人の人間だった。


 彼がようやく彼女の光を見つけたとき、その光はもう、彼を照らすためには灯っていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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よろしくお願いいたします。

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